ピピ、ピピ、ピピ……。
どこか遠くで目覚ましが鳴っている。
うるさいな、と頭の片隅でぼんやり思った。誰だか知らないけれど、早く止めてくれたらいいのに。
ピピ、ピピ、ピピ。
目覚ましの音が少し大きくなった。
うるさい。うざい。
今、一体、何時?
ううん、その前に今日はいつだっけ?なんだかずっと休んでない気がする。
重くて重くて仕方がない瞼を、必死でこじあけた。
天井。見慣れた、自分の部屋の。
霞む視界のまま視線をずらす。左手の壁の方へ。
そこには日めくりカレンダーが掛けてあって。カーテンから漏れる薄明かりの中、“11”と黒々とした数字が見えた。
11。……11?!
「やだ、月曜日?!」
あたしは慌てて飛び起きた。
六月十一日、月曜日。
カレンダーをもう一度、確かめる。間違いない。
月曜日は、朝一にミーティングがあるからいつもより十五分は早く家を出ないといけない。のんびり寝過ごすヒマなんか、なかった。
いまだに鳴っている目覚ましを止め、大急ぎでパジャマを脱ぐ。その瞬間、
(あれ?なんだか……同じことを何回も繰り返している気がする)
と、着替えながら思った。寝起きがいいのはあたしの自慢で、今まで寝過ごしたことなどなかったはず……なのに。
どうしてだろう?
言葉に出来ない奇妙な不安が胸を過ぎったけれど、あたしは軽く頭を振った。考えている余裕はない。そして急いで仕度をしているうちに、気持ちの悪いもやもやは薄れ、消えていった――。
予定の電車にぎりぎり間に合って、あたしは遅れることなく会社についた。
古ぼけた七階建てビルの三階。エレベーターはあるけれど、小さくて汚いし今にも故障しそうな雰囲気なので、あたしは健康目的も兼ねて常に階段を使っている。リズム良く階段を上っていると、前に一人の女性が見えた。見覚えのある後ろ姿に、あたしは声をかける。
「おはよ、紗弥香!」
「あ、おはよう、美久」
隣の事務所の森紗弥香だ。
振り返った顔はやや生気に欠けている。
「どうしたの?なんか、元気ないじゃん」
「ん……ちょっとね」
返ってくる答えも覇気がない。どうしたんだろう?いつもは明るくて、誰にでも愛想が良くて、ちょっと引っ込み思案なあたしにはすごく眩しくて羨ましいくらいなのに。
とりあえず「お昼、一緒に行こうね」と言ってみたが、紗弥香は気のない返事をして隣の事務所に消えた。あたしは釈然としない気分のまま、自分の事務所の扉を開ける。
あたしは、輸入雑貨を扱う小さな会社に勤めている。社長含めて七人という規模で、あたし以外は皆、四十代から五十代の年配の人ばかりだ。あたしの仕事は総務なんだけど、実態といえば掃除やお茶汲みや皆のおやつの買い出しなんかもしている雑務係である。
紗弥香はアパレル関係の会社に勤めている。経理担当だ。彼女の会社は別の場所に大きな倉庫が幾つもあって、事務所の面積だってうちより倍以上広く社員も多い。(たぶん、給料もあたしより多いことだろう)
本来なら挨拶を交わす程度の付き合いにしかならないのだろうけれど、三階の共同給湯室でよく顔を合わせるうちに、あたしと同じ年だということが分かって、それ以来すっかり仲良くなった。そろそろ、三年ほどの付き合いになる。いつも昼食を一緒に食べたり、たまに飲みに行って互いに愚痴を言ったり、何度か二人で旅行にも行った。内気で友人の少ない私にとって、紗弥香は一番の親友だ。
それにしても……紗弥香、この週末は特に予定がないと言ってたんだけどな。何かあったのかしら。お昼の時に話してくれたらいいんだけど……。
目覚めが良くなかったことと、紗弥香の悄然とした様子が気になって、午前中は仕事にほとんど身が入らなかった。どうせ急ぐ仕事もないし、こっそりネットでニュースを見たり占いをやってみたりする。
今日の運勢、×。抜け出せない深みにはまる可能性があるので、寄り道せず真っ直ぐに家へ帰りましょう。ラッキーアイテムは鏡。
……抜け出せない深みって何よ?
こういう占いって、大体、漠然としたことしか書いてないのよねー。それでもまあ、×だったら気になるし○だったら嬉しいんだけど。
――そんなこんなしているうちに、ようやく十二時になった。
それぞれ、上着を手にそそくさと外へ出て行く。皆、近隣の定食屋などでお昼を食べるのだ。うちの事務所でお弁当の人はいない。
あたしも外へ出た。
今日は一人でお昼かな、と思っていたけれど、紗弥香はいつものように玄関口で待っていた。
「ね、美久。今日はさ、サンドイッチでも買って公園で食べよう!」
今年は四月、五月とよく雨が降り寒くて仕方がなかったのだが、六月になった途端、見事に晴れ渡って気持ちの良い陽気が続いていた。
ワンボックスカーにパンをたくさん詰めて、昼時だけオフィス街へ売りに来る“こむぎ”という名のパン屋さんで、あたしはミックスサンドとチョココルネを買った。紗弥香はツナサンドとドーナツを買う。そして五分ほど歩いて、ブランコだけ設置されている小さな公園に行った。
あたし達の他にも、この陽気に誘われたらしくお弁当を持った制服姿のOLがちらほら見える。
奥の方の、ブランコに近いベンチにあたし達は腰掛けた。
「……あのね」
食べ始めて少ししてから、紗弥香が遠慮がちに口を開いた。それまで、あたしだけがぼそぼそとドラマの話とか、この間見かけて気になってる服の話をしていたのだが、あわてて口を閉じて横を見やる。
「私……」
だけど紗弥香は妙に煮え切らない。何度も唇を湿らし、逡巡を繰り返し、ようやく決意したようにあたしを見た。
「実は、小石川部長と付き合ってるの」
「こいしかわ部長って……えと、四十そこそこくらいの、あの色の黒い人?」
確か、結構男前な人だ。色が黒いのは、たぶん何かスポーツをやっているからではないだろうか。すごく引き締まった体をしていて、動きがきびきびしている。バリトンの声も渋くて、他の階の女子にも人気が高い。彼が見たくてわざわざ三階給湯室に「お砂糖を切らしているから貸して欲しい」とかなんだか理由をつけて来るぐらいに。
「でもあの……結婚してるって聞いた、けど」
「うん。三つ年上の奥さんがいるわ。だけど、この数年、ベッドは別なの」
「ふーん……」
なんて返事を返せばいいんだろう。あたしは返答に困って、曖昧に頷いた。
まさか紗弥香が不倫してるなんて。ずっと、彼氏はいないって言ってたのに。
思いもよらない話の展開だったため、あたしは少々困惑気味だった。紗弥香とはなんでも話していて、お互い知らないことなんかないって思いこんでいたから余計そう感じたのかも知れない。
だけど紗弥香はあたしの困惑に気づかない。
「……子供もいないし、もう愛もないから、彼、別れて私と結婚するって約束をしてたわ。でも……昨日、デートに来なくて、電話したら『妻にバレた。自殺すると大騒ぎしている。とりあえず、しばらく距離を置こう』って」
紗弥香は俯き、いつの間にか硬く握り締められていた拳が小さく震えた。その拳を見つめながら、言葉を続ける。
「あの女と離婚するって言ってたんだから、バレたならちょうどいいじゃない。さっさと別れればいいのに……どうして、私と距離を置くの?あの女のご機嫌取りなんか、する必要があるの?自殺するって言うならさせればいいじゃない。なんかそんなこと、ぐるぐる考えてたら全然寝れなくて」
そして、肩を落とした。
「ごめんね。ずっと、隠してて」
「う、ううん。別に謝ることじゃないよ。えっと……たぶん、奥さん、ホントに手首とか切っちゃって、それを放っておくことが出来なかったんでしょ。普通はそうだってば。仕方ないって。大丈夫、紗弥香の方が断然若いし可愛いから、焦らなくていいじゃん。ね?」
正直、あたしとしては不倫反対だし、小石川部長って自分がモテることを十分承知しているタイプに見えるから、この際別れた方がいいような気がしたけど、こんなに落ち込んでいる紗弥香を見るのが初めてだったために必死で言葉を探して慰めた。
紗弥香が小さく微笑む。
「ん、ありがと、美久。ちょっとだけ、気持ちが軽くなった。やっぱ一人でずっと溜め込んでたらダメよねー。武史さん、別れるって言ってくれてからもう三ヶ月だから、私も少しイライラしてて。もうちょっとしっかり信じなきゃ」
健気な紗弥香の微笑みに、あたしは胸がチクリとした。やっぱり友人なら、ここは“別れるべきだ”ってはっきり言うべきなのかも知れない。今まで紗弥香と恋愛話をすることがほとんどなくて、紗弥香の恋愛感を全然知らなかったけど……なんだかすごく一途に思い詰める性質っぽい。今の紗弥香は少し危うい感じがする。
「今日、小石川部長は?」
「今日と明日、九州の方へ出張なの」
「そっか」
「エライ人と一緒だから、電話、ムリなのよね。せめてメールくれたら嬉しいけど、キライだから全然返してくれないし」
切ない溜息をついて、彼女は空を見上げた。その横顔はひどく儚く見えた。
紗弥香は小柄で、色白で、目が大きくぱっちりしていて可愛い。胸も大きくて、小さいながらもスタイルは良い。
対するあたしは、百七十センチ近い長身だ。だけどモデルのようなとは言い難く、胴は長いし撫で肩だし貧乳で全然ぱっとしないスタイルである。紗弥香と並んでいたら、かなり見劣りすることだろう。まあ顔はそんなに悪くない……と思っているけど。
仕事が終わってから、あたしは紗弥香と二人で飲みに行くことにした。気落ちしている彼女の気晴らしをしようと思ったのだ。
紗弥香とあたしのでこぼこコンビは、わりと目を引くらしい。夜の街を歩いていたらちょこちょこナンパヤローに声を掛けられる。今日も紗弥香が慣れた仕草で断り、よく行く居酒屋に入った。ここのダシ巻き卵が今、あたし達の間ではお気に入りなのだ。
「二年くらい前から、時々二人で飲みに行ったりしてたけど、付き合いだしたのは八ヶ月前なの」
昼間、あたしに不倫を打ち明けたことで気が楽になったのだろうか。紗弥香は、カウンターに座り一杯目のビールに口をつけるなり、早速小石川部長との付き合いについて喋りだした。今まで隠していた分、話し始めたら止まらない。どこに行っただとか、こんなものをプレゼントして貰っただとか、ノロケ話の連続だ。あたしはただ、うんうんと相槌だけを打つ。
やがて昨日の話になって、再び彼女は項垂れた。
「やっぱり……武史さん、あの女のことまだ愛しているんじゃないかしら。大学の先輩だったんですって。地方から出てきて、慣れない武史さんにご飯を作ったりしてくれたって。……ずるいわよね。そうやって武史さんを自分に縛りつけたんだから」
部長の奥さんに会ったことはないという。でも紗弥香の目には奥さんの姿が見えているようだった。紗弥香らしくない憎しみの籠もった調子で“あの女”なんて言う。口調はそれほど激しくないけれど、気が付けば目はぎらぎらとしていた。その様子は、なんだか少し怖かった。急に人が変わったようだ。いつもより飲むペースも早いし、少し呂律が回らなくなってきている。今日はさっさと切り上げた方がいいかも知れない。
何と言い出そうか悩んでいたら、ふいに、一冊の黒い本があたし達の前に置かれた。
びっくりして横を見る。
紗弥香の右隣に座っているひょろりとした風采の上がらない男が、あたし達の視線を受けてにっこりと笑った。妙な男だ。一見、五十を過ぎているように見えるが、改めてよく見ればあたし達とそれほど年が変わらないようにも見える。
「あの……?」
「失礼。とても可愛らしいお嬢さんが悩み苦しんでおられるようなので、つい、ちょっとしたプレゼントを差し上げたいと思いまして」
「この本ですか?」
紗弥香が不審の響きを込めて、置かれた本を見た。
黒い革張りの本。いや、手帳?大きさはノベルズサイズで、厚さは一センチほど。表紙にも背表紙にも、何も書かれていない。やや、使い古した感がある。
男は頷いた。
「それは通称『悪魔の書』です。強い思いを込めて望みを書けば、その通りのことが起こります。ま、悪魔の書ですから、基本的に“負”の望みになりますが」
「それはマンガのネタですか?からかわないでください」
今度ははっきりと不快の意を表して、紗弥香が本を男の方へ押し返した。当然の反応だ。
しかし男は受け取らない。妙に得体の知れない笑みを浮かべて、こちらを見ている。芝居がかった仕草でゆっくりと足を組んだ。
「冗談と思って頂いても構いません。むしろ、そう思って使わない方が賢明かも知れませんね。ま、折角ですからどうぞお納めください。憎い相手がいる時、この書に色々書いてやろうと思うだけで、意外と支えになるものですよ」
「……仮にあなたの話を信じて、これに何か書いたとして」
紗弥香は少し眉を寄せ、男に向き直った。そして挑むような口調で男に問い掛ける。
「どうせ、何か代償がいるんでしょ?悪魔といえば、命とか」
「そうですねえ、やはりどんなことでも代価は必要ですからねえ。でも、イコールではありません。決してイコールでは。望んだ結果の三〜四割程度が代金です。ですから、命が代価となるには、相当な望みが必要となりますよ」
言いながら、男の目の色が黒く深くなった気がした。まるで底なし沼のように。
……気持ち悪い。
「紗弥香。出よう」
あたしはそっと親友の腕を引いた。荷物を持って立ち上がる。
だけど何故か紗弥香は動かなかった。まだ、男を見つめている。男も紗弥香から目を離さない。男の笑みが広がった。
「一度書いてしまったら取り消しは出来ません。覚えておいてください。それから望みを書くならば、あまり細かく書かないでください。この世は秩序の理に従って動いていますからね。極端な例ですが、健康な人が癌で明日死ぬなんて無理がありますでしょう。常識的に考えて無理のない範囲で、ざっくり大きく書き、そして強く望んで下さい。強く、強く……」
翌日。
あたしは重い気分で出勤した。昨日、紗弥香はあたしが反対したのに結局黒い本を持って帰ってしまったからだ。すごく嫌な予感がする。男の話は信じていない、ただ気休めに持っているだけだ、と言っていたけれど。
……男の話は荒唐無稽だ。
冗談に違いない。
だけど、話している時の男の目は気持ち悪かった。なんだか爬虫類の目のようだ。口元は笑っているのに目が笑っていない。そう、獲物を見つけたワニに似ているかも知れない。あんな本なんか、持って帰らない方が良かったのに。
鬱々としながら駅から職場へ向かう途中、前を歩いている紗弥香を見つけた。
歩き方が妙だ。
「紗弥香、おはよう!どうしたの、足?」
駆け寄って声を掛ける。足の方へ目を向けたら、膝に傷があった。赤い色の血が毒々しい。
「怪我?!」
思わず叫んだあたしに、紗弥香はぱたぱたと手を振った。
「聞いて美久ぅ!朝、駅で転んじゃったの。もう恥ずかしいったら」
「転んだ……の?」
「そう、学生の持ってた大きな鞄にぶつかって、バランスを崩しちゃって。階段、最後の一段だったから転げ落ちずに済んだけど膝を擦り剥いちゃった」
昨日の暗い様子は微塵もなく、彼女は照れ笑いをする。
少しだけほっとして、あたしは肩を落とした。
「大怪我をしなくて良かった」
「うん、ありがと。会社に着いたら、洗ってバンソーコー貼っておくね」
――職場に着き、紗弥香と別れる。
さて、朝一番の私の仕事はお茶の準備だ。事務所に鞄を置いて、真っ直ぐ給湯室に行った。ちょうど清掃のおばさんがゴミを出しているところだった。
「おはようございます」
「あら、おはよう。……ね、さっき救急車走ってたでしょ?」
お喋り好きなおばさんは、挨拶をするなり早速身を寄せてきた。
「あー……そういえば、音を聞いたような気がします」
「アレね、NEコーポレーションの崎田さんがケガしたのよ。ちょっと前に救急隊か病院からか電話が掛かってきて、若い子が飛んで行ったの」
「崎田さんって……赤い縁の眼鏡を掛けてる方ですか?」
NEコーポレーションは紗弥香の会社だ。崎田さんは、確か庶務の仕事をしているベテランの女性だったはず。紗弥香は崎田さんにいつもいじめられているとこぼしていたっけ。
「小耳に挟んだだけだけど、駅の階段から落ちて、骨折したみたいよ?」
ひえー、骨折。怖いなあ。
紗弥香も転んでいるし、階段、気をつけないと。
あたしはひとしきり、朝の殺人的ラッシュについておばさんと語り合った後、カップの並んだトレイをいつもより慎重に捧げ持って事務所へ戻った。
まもなく重役出勤してきた社長が、仲の良いNEコーポレーションの係長さんと話してきたところによると、崎田さんは確かに足を骨折したが骨折といっても亀裂骨折なのでギプスで済むらしい。入院治療するほどでなくて良かったけれど、それでもたぶんギプス生活は不便なことだろう。
やがて昼休みになり、紗弥香に「崎田さんのような怪我にならなくて良かったね」と開口一番に言ったら、彼女は冴えない表情であたしを見返した。
「そうね。良かった……と思うわ」
「どうしたの?なんだかんだ言って崎田さんがいないから、気が抜けてる?」
「そんなわけないじゃない。今日は天国の気分よ、崎田さんには悪いけど」
くすっと紗弥香は笑った。いつもの紗弥香の顔だ。
あたし達は今週末から封切になる映画について話ながら、よく行く定食屋に向かった。
水曜日。
いつもより一本遅い電車になってしまったので、あたしは時間ぎりぎりの出勤になった。今日は社長が休みなので、つい気持ちが緩んでしまったらしい。
午前中はわりとスムーズに仕事が進んだ。来週はちょっと忙しくなる予定なので、溜まっている仕事はこの調子でさっさと片付けた方がいいかも知れない。
だけどお昼を食べ、三時くらいになったら急に眠くて眠くて仕方がなくなった。
全然集中出来ない。
濃いコーヒーでも入れて、気合を入れ直そう。
あたしはカップ片手に廊下に出た。給湯室へ行きかけたら、ちょうど紗弥香も事務所から出てきた。あたしのカップに目を留め、彼女は首を傾げる。
「あら?休憩?」
「ん、もうすっごく眠くて。紗弥香は?」
「私はちょっと郵便局まで。でもその前に私もコーヒーを飲んで行こうかしら」
いたずらっぽい目つきで笑い、あたしの横に並ぶ。
良かった。紗弥香と少し喋ったら、もうちょっとしっかり目が覚めるに違いない。
他愛ない雑談を交わしつつ給湯室に入ったら、中にいた先客が驚いたように振り返った。
背の高い男。と、小柄な女の子。かなり若そうだしエプロンをしているので、バイトの子かしら。
「小石川部長……」
紗弥香がやや硬い声で男の名を呼んだ。
「やあ、森君。君も休憩か?」
相変わらず日に焼けて健康そうな顔色の小石川部長が爽やかに笑う。炭酸飲料のコマーシャルに出たら似合いそうだ。
紗弥香が返事をせず立ち尽くしていると、女の子が気まずそうに「すみません、それじゃ失礼します」と頭を下げた。そそくさと給湯室を出て行く。小石川部長は女の子にひらひらと手を振った後、その手をこすり合わせた。
「さて、僕も戻るとするか。あ、森君、手の空いた時でいいんだが、ちょっとコピーを頼みたい書類があるんだ。また後で声をかけてくれ」
「はい。分かりました」
奇妙な声だな、とあたしは思った。なんだか紗弥香の声じゃないみたい。
出て行く小石川部長のためにあたしは脇に寄り、そしてそっと親友の顔色を窺った。
紗弥香は、紙のように白い顔色になっていた。
「どうしたの?気分、悪くなった?」
「……さっきの子、五階の事務所のバイトよね」
「え?そうなの?」
「……泥棒猫」
低く、吐き捨てるように紗弥香は呟いた。今までに聞いたことのない声音だった。
木曜日、天気は雨。
ようやく梅雨らしい、シトシトとした雨だ。街路樹が久しぶりの雨に生き生きとしている。
今朝はいつも通りの時間に出勤したが、紗弥香に会わなかった。なんとなく、落ち着かない。
昨日、紗弥香は残業だったようで、昼休憩以降会えなかった。様子が変だったから、一緒にご飯でも食べて気晴らししようと言いたかったんだけど。
給湯室へ行くと、清掃のおばさんが待っていたようにあたしを手招きした。
「ちょっとちょっと!昨日に続いて事件だよ!」
「事件?」
おばさんは目を輝かせている。ゴシップとか、そういう類を話すのが大好きなのだ。でもあたしは、今日は聞きたくない気分だった。気乗りしないあたしに気付かず、おばさんはひそひそと囁いた。
「あのね、五階の岩村さんとこでバイトしてる若い子がね、昨日の帰り、襲われたんだってさ!」
「え?」
「暴行、されたらしいよ。あんたもまだ若い娘なんだから、帰り道は気をつけなさい」
暴行。
五階の若いバイトの子。
昨日のエプロン姿の子が思い出された。……まさか、ね。
おばさんのおかげで落ち着かない気分がますます増し、午前中、あたしはほとんど仕事が手につかなかった。
昼休みになり、急いで事務所を出てNEコーポレーションを覗く。入り口近くの席に、見慣れた姿はない。
「森さんだったら、午前中休みよ。病院に行くとかで」
「あ、そうですか。ありがとうございます」
紗弥香の向かいに座る女性が、いつも紗弥香と一緒にお昼へ行っていることを知っていたのだろう、親切に教えてくれた。あたしは頭を下げて、廊下に出た。
病院って……どうしたんだろう。
携帯を見たけれど、メールは入っていない。急に休んだ時は、いつもちゃんとメールをくれるのに。
とりあえず、さっさとお昼を済まそう。で、紗弥香が出勤してきたら少しだけでも話を聞かなくちゃ。どうしてだか、すごく不安で仕方がない。
――昼食は、向かいのビルの一階にある喫茶店で食べた。窓際に座り、通りを眺める。まるで張り込みの刑事のようだ。
スーツや制服姿の人、人、人。
オフィス街の人の群れは少し無機質だ。白と黒と紺が多くを占めている。でも今日は雨が降っているから、傘の花が鮮やかに咲いている。キレイ。窓ガラスと雨を通して見る景色は、見慣れたビルと通りを別物に変えている。
その時、向こうから真っ赤な花がやってくるのが見えた。
その下に覗く顔を認めて、あたしは急いで立ち上がる。紗弥香だ!
「紗弥香!どうしたの、病院って。大丈夫?」
支払いもそこそこに飛び出して、あたしは傘も差さずに紗弥香の横に並んだ。紗弥香がビックリしてあたしを見上げる。
「美久!ちょっとビックリさせないでよ。なぁに?傘、忘れたの?」
「それ、顔……」
見上げる顔に、痛々しい傷跡を見つけてあたしは絶句した。唇の左側に絆創膏が貼ってある。周囲が少し青あざ様だ。目元にも切り傷がある。
「ケンカに巻き込まれて、ちょっとケガしちゃった。でもそんなに痛くないから平気よ」
にっこりと可愛く微笑んで紗弥香は言う。その口調は不思議なくらい朗らかだ。
そしてあたしに傘を差し出した。
「ほら、濡れちゃうじゃない。早くビルに入りましょ」
あたしは頷き、紗弥香の傘に入れて貰いながら古ぼけたビルの玄関をくぐった。あたしの傘は喫茶店に置いてきてしまったけれど、後で取りに行けばいい。
「ね、紗弥香」
「何?」
無邪気に首を傾げる、親友。
あたしは努めて平静に言葉を紡いだ。
「五階のバイトの女の子が、昨日、暴漢に襲われたそうよ。紗弥香も気をつけなくちゃね。最近、災難続きじゃない」
「ふーん……。ええ、気をつけるわ」
確かによく知っているはずの親友は、まるで別人のような笑みをうっすらと口元に浮かべた。
昼間にあまり仕事が出来なかったので、今日は少し残業をすることにした。
キリのいいところまで……と思っていたら、いつの間にか八時近い。後は作った書類を印刷して最終チェックをするだけだ。もう皆帰って誰もいないし、コーヒーを入れて、一息ついてから仕上げよう。
あたしは年寄りのように腰を叩きながら立ち上がり、給湯室へ向かった。
NEコーポレーションにもまだ明かりがついている。
扉の前を通り過ぎた時、カンに触るような笑い声が聞こえた。扉が二センチほど開いていて、こちらに背を向けた女性の姿がわずかに見える。
「――いい加減、目を覚ましたら?彼、すっごく迷惑してるのよ」
聞き覚えのある声だ。NEコーポレーションに新しくこの四月から入ってきた二十歳の子だろう。ハーフっぽく見える可愛い顔をしていて、挑発的な短いスカートをいつもはいている。見ればいつもネイルアートばっちりで、真面目に仕事をする気があるのか聞いてみたいと思った記憶がある。
「………」
相手が何か答えた。声が小さくて私には聞こえない。二センチの隙間から分かるのは、背を向けた女の後姿だけだ。
ふん、と馬鹿にしたように鼻を鳴らす音がした。
「大体、顔ぐらいしか取り柄ないのに、そんな傷作ってさ。バッカじゃないの。これ以上みっともなくならないよう、潔く身を引くことね」
がたっと音がした。女が動く。
あたしは慌てて給湯室へ向かって走った。別に立ち聞きをしたかった訳じゃないけど、込み入った話のようだったしこのまま顔を合わせるのもなんだか気まずい。NEコーポレーションの扉が開くのと同時くらいに、あたしは給湯室へ飛び込んだ。
カッカッカッカッ。
ヒールを高らかに響かせながら、誰かが階段の方へ向かう。そっと覗いてみたら、思った通りNEコーポレーションの若い新人だった。名は……広川とかじゃなかったっけ。勝ち誇った笑みが彼女に広がっている。
階下へ向かう足音を聞きながら、NEコーポレーションの方を見る。扉は閉まっていて、中は窺い知れない。
あたしは溜息をついて、戸棚の中からインスタントコーヒーのビンを引っ張り出した。
十五日、金曜日。曇り。
満員電車に揺られながら、あたしは前に座っている男性の手にある新聞に目が釘付けになっていた。
“美人OL、無残!ストーカーに襲われ火ダルマに!”
一面に踊る毒々しい文句。
添えられた写真は夜中に撮ったものだろうか。周囲が暗く、ライトに照らされた地面には黒く焼け焦げた跡が見える。
小さく、丸枠の中で笑っている被害者女性の顔写真を見て、あたしの全身に抑えようのない戦慄が走った。
――広川さんだ。
駅に着いて、あたしは急いで新聞を買った。満員電車の中ではとても記事の詳細まで目を通せなかったからだ。
“昨夜午後十時五分頃、閑静な住宅街の一角で若い女性の絶叫が響き渡った。会社員、広川舞さん(二十)が何者かにガソリンをかけられ、火を付けられたのである。悲鳴を聞きつけた近隣の住民らが懸命に消火を行い、すぐに救急隊も駆け付けたが、広川さんは広範囲に重度の火傷を負って意識不明の重体。犯人と思しき若い男性は犯行後逃亡しており、現在、捜索中である”
逃げた男性は青いジーンズ、白いパーカー姿。身長百八十センチくらいの金髪の男。広川さんが一ヶ月ほど前に別れた元交際相手と酷似しているという。
あたしは重い足取りで会社へ向かった。古ぼけたビルの前には、何台もの車が止まっている。たぶん、雑誌やテレビの取材だ。あたしは裏手に回って通用口から中に入った。そして果てしなく続くように感じる階段を上り、三階に辿り着く。
NEコーポレーションはまるで天地をひっくり返したようだった。
記者達は下の玄関で足止めされているらしいが、ひっきりなしに電話がかかっている。開け放した扉の向こうで、社員があちこち走り回っているのが見えた。上下の階の事務所からも野次馬が集まっていて、誰もが広川さんの詳細を知りたがっていたが、NEコーポレーションの人間だって細かいことを知っているはずもないだろう。
「あ、ちょっと吉村さん!」
廊下で立ち尽くしていたら、一階の受付で警備をしているはずの野口さんという初老のおじさんに声を掛けられた。
「君、たしか森さんと仲良かったよね?」
「ええ、はい……」
嫌な予感がした。
「広川さんも大変なんだけど、森さんも大変なんだよ。なんか火傷して入院したって。お母さんが何回掛けても会社に電話がつながらないってんで、受付に連絡してきたんだけども」
野口さんは困ったように頭を掻いた。あたしは全身から血の気が引いていくのが分かった。すごく、気分が悪い。
野口さんはあたしが黙って立ち尽くしていることに頓着せず、きょろきょろと周囲を見渡した。
「NEの人に伝えようと思って来たんだけど、こりゃちょっと難しそうだねえ。……吉村さん。あんた、悪いけど森さんの件、NEの課長さんだか部長さんだかに言ってくれねぇかな。外にいっぱい記者がいるからワシもあんまり長い時間、下を放っておくわけにいかんでね。あんた違う事務所だけんど、どうせ向かいだし、森さんと仲良かったしさ」
少し無責任な気がしたが、確かに今の状況では仕方がない。あたしはただ頷いた。野口さんはほっとしたように目元を緩める。そしてひょっこりと白髪の目立つ頭を下げた。
「じゃ、すまんね。よろしく頼むよ」
「あ。あの……!」
安心してさっさと階下へ向かいかけた野口さんを、あたしは思わず呼び止めた。考えてみたら、詳しいことは何も聞いていない。
「森さん、どこの病院に入院されたんですか?それとどうして火傷したのかとか、状態は……」
「ああ」
野口さんは足を止めて少しだけ振り返った。
「横山中央病院だよ。なんか家でテンプラがどうとかこうとか言ってたけど……手とか顔に火傷しちゃって、命に別状はないものの、もしかしたら痕が残るかも知れないって話だったよ」
「そうですか……」
紗弥香……。どうしてこんなことに……。
どうにかこうにか、紗弥香の件をNEコーポレーションの人に伝える。
頼りなさそうな営業の男性は立て続けの凶報に絶句していたが、あたしは言うべきことを言ったらさっさと自分の事務所に戻った。
事務所の中も、廊下とあまり変わらない状況だった。
小さなテレビをつけて社長と営業の木村さんが噛り付いている。小笠原さんと高畑さんはネットで情報収集をしているらしい。川井さんは窓の辺りをうろうろ。中田さんは部屋にいないのでたぶん、廊下の野次馬に加わっているに違いない。誰も仕事どころではなさそうだ。
あたしはひとまず自分のパソコンを立ち上げた。昨日残って仕上げた書類に社長の印を貰わなければいけない。それと今日が支払い期限の振込み処理を片付ける必要がある。それ以外にあと二、三件処理したら……午後から半休を貰おう。紗弥香に――会いに行かなくては。
初めて訪れた横山中央病院は、わりと新しい建物のようだった。
入ってすぐにある受付と会計窓口は、広い吹き抜け空間で、一面が全てガラス張りになっていて明るく清潔な雰囲気を醸し出している。控えめな音量のクラシックが流れており、シックな色合いでまとめられた空間はホテルのロビー風だ。
受付に聞き、病棟へ向かう。紗弥香が入院しているのは“六階西”。
エレベーターに乗り、あたしは一つ深呼吸をした。
あたしは、紗弥香に会って何を言うつもりなんだろう。
だけど、あたしの頭の中にはすでに一つの確信があった。今更、もう何を言ったって遅い。でも、せめてこれ以上紗弥香が深みにはまらないよう止めなくては。
――病室は個室だった。
あたしは見舞いの花一つ、持ってきていない。
入り口で少しだけ姿勢を正して、あたしは小さくノックした。紗弥香が寝ていたらどうしよう。検査中でいなかったら?
だけどそんな心配は無用で、中からくぐもった返答が返ってきた。
「……どうぞ?」
静かに扉を開けて中に入る。あたしを見て、紗弥香が驚いたように声を上げた。
「美久?どうしたの、会社は?」
「紗弥香が入院したって聞いて、心配になったから半休を貰ってきたの」
ベッドに横たわる友人の姿は痛々しかった。顔の右半分が包帯で覆われている。右手も先から根本まで真っ白な包帯だらけだ。肩まであった艶やかな髪は、今、短く切り揃えられていた。
「やだ、ごめんね。そんなに大したことないのよ。見た目はハデだけど」
火傷のせいで顔をひきつらせながら、紗弥香は不自然なほど明るい声で言った。
「昨日、帰ったのはちょっと遅かったんだけど、お父さんがテンプラを食べたいって言うから少しだけ作ろうとしたの。そしたら、変に急いだせいなのか上着の袖口に火が引火して、こんなことになっちゃって。もう、痛いとか怖いとか言うより、ビックリ。何が起こったのかさっぱり分からないうちに、気が付けば病院だったのよ」
あたしは言葉が見つからないまま、彼女のそばに行く。紗弥香はベッド脇の椅子を指し、座るよう勧めてくれた。あたしは座らず、余計なことも喋らず、紗弥香を見下ろしながら端的に問うた。
「ねえ、紗弥香」
「なぁに?」
「ほら、この間、変な男から黒い本をもらったでしょう?あれ、今どこにあるの?」
それまで饒舌だったのに、ぴたっと言葉が止まった。紗弥香の目が急に人形のようになる。感情のないガラス玉のような、目。
「本?そんなもの、もらったっけ?」
「紗弥香。どこなの?家?」
あたしの語気が少し強くなった。紗弥香にこんな言い方をするのは初めてだ。腹を立てているのだろうか、それとも悲しいのだろうか……体が小刻みに震えている。
紗弥香はあたしから目を逸らし、天井を見据えた。
「――本。そうね、もらったわね。どこにやったかしら。だけど……もう本は必要ないの。だって私はもう“使えない”から」
「どういう……意味?」
この人は一体、誰?あたしの知ってる紗弥香はどこ?
こんな背筋の凍るような笑みをする人、あたしは知らない。
あたしは脳天に重い一撃をくらったような気がして、ぐらりとよろめいた。
まるで突然悪い夢の中に迷い込んだ気分だ。何もかもが歪んでいる。真っ直ぐに立っていられない。これは紗弥香じゃない。紗弥香、紗弥香はどこ?
ふらふらとベッド横の消灯台に手をついた。支えきれず、そのまま崩れ落ちる。消灯台ががたんと揺れて、倒れなかったけれど下側の扉が開いた。
ばさり。
何かが目の前に転がった。
……何?
目をこらす。黒い色。長方形の。
紗弥香は動かない。上を向いたまま、無言だ。
あたしは、震える手を伸ばした。
滑らかな手触り。何の皮だろう。
黒い本は意外にずしりと重みがある。そっと一ページ目をめくった。
“崎田順子、階段から落ちて大ケガをする”
きっと酔っている時に書いたのだろう。普段なら罫線がなくても几帳面に真っ直ぐ書かれるバランスの良い綺麗な字は、斜めに歪んでやや乱れていた。
恐る恐る、次のページを開ける。
“菰田せりな、強姦される”
気持ち悪くなった。
今度は真っ直ぐに、高い筆圧で一字一字丁寧に書かれている。その想いの強さを表すように。
右のページは白紙だ。
更にめくった。
“広川舞、全身に大ヤケド”
涙が出てきた。
ペンで殴り書きをしたような字。ページいっぱいにはみ出しそうなほど大きく書かれている。
「どうしてこんなこと、したの……」
あたしはほとんど独り言のように呟いた。
優しい紗弥香。可愛い紗弥香。こんなことを願うなんて、らしくない。仕事で辛い時、どれほど紗弥香に助けられてきたことだろう。紗弥香がいなかったら、あたしは仕事を続けられなかった。あんなヤツ、大ッキライ!と叫ぶたびに「世の中、気の合う人ばかりじゃないよ。でも美久がちゃんと頑張って仕事をしてることは、みんな分かってる」と励まし、支えてくれた。決して誰かの悪口を言うことはなかった。あたしはそんな紗弥香が好きで、自慢だった。まるで……まるで天使のようだったのに。
「……武史さんとの間を邪魔するからいけないのよ」
掠れた声が頭上から聞こえた。砂のように乾いた声だった。あたしは頭を振った。
「小石川部長は結婚してるじゃない」
「そうね」
感情の欠落した声音。顔が見えない今、紗弥香ではなく機械が喋っているみたい。
「さっきね」
機械が言葉を続けた。
「あの女と喋ったわ。私は武史さんに会いたかったの。だから武史さんに電話したのに……あの女が出たのよ。私のこと、知ってるって言ってた。可哀相に、って笑った。『あなた、ただの遊び相手よ。今までにそんな子は何人もいたの。みんな、私こそって思いこむんだけどね。……勘違いしないで。武史が本当に愛しているのは私だけよ。悪いけど、そろそろ潮時だからあきらめてくれないかしら』」
少し途切れ、乾いた咳がした。
「私はそんなことないって言った。武史さんが愛しているのは絶対に私だって。あの女はまた笑った。『あなたのこと、知ってるのよ、森紗弥香サン。七月六日生まれ、A型。肩甲骨の下あたりに三つ並んだホクロがある。武史が教えてくれるの。オモチャに飽きたら、いつもわざわざ私に報告するのよ。変なクセでしょ』」
深く、長い溜息。
今、紗弥香はどんな顔をしているのだろうか。あたしは見たくなかった。出来れば声も聞きたくなかった。耳も目も塞いで、閉じこもりたい。
ずるっと手から黒い本が滑った。
膝と床の間に中途半端な形で止まる。はらりとページがめくれた。
“死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね”
太いペンによる歪んだ字が、見えた。幼い子供の字のようだ。
あたしは目を閉じようと思った。本を払い退けたかった。
ばたん。
膝から本が落ちる。嫌でも下の方に書かれた大きな字が目に入った。
“苦しんで死ね 小石川弥生”
「さや…か……」
「武史さんが、例え本当に私のことを愛していたとしても……やっぱり終わりね。こんな醜い顔になった私を以前と同じように愛してくれると思えない」
“小石川武史、死亡”
並んだ二つの名前に、あたしはとうとう抑えきれない嗚咽を漏らした――。
細かく細かく破いて捨てても、真っ黒にすべてが灰になるまで焼いてしまっても、きっと一度強く望んだ願いの効力は失われないだろう。
荒唐無稽だと初めは思っていたけれど、今のあたしは“悪魔の書”の力を信じていた。
もう、どうすることも出来ない。二人もの死を望んだ紗弥香は、きっと死んでしまうだろう。例え死ななくても無事ではいられないに違いない。いや……どっちにしろ、天使のような紗弥香は死んでしまった。
“紗弥香を元に戻してください”
“小石川夫妻を殺さないでください”
無駄だと思いながら、何度も何度も同じ文句を黒い本に書き綴る。ぽたぽたと落ちる涙が書いた字を滲ませた。
どうやって紗弥香の病室から自分の家まで帰ってきたか、覚えていない。そんなことはどうでもいいことだ。
どうしてあたしはもっと早く、気付かなかったんだろう。
紗弥香は、いつだってあたしを助けてくれたのに。
紗弥香の心の闇があれほど暗くなる前に、何故、何も出来なかったの。
無力な自分が恨めしかった。紗弥香を救えるなら、何を投げ出しても良かった。紗弥香は幸せになるべき人間だった。
「あたしの残りの人生を全部捧げてもいい。お願い、紗弥香を助けてよ……!」
ピピ、ピピ、ピピ……。
どこか遠くで目覚ましが鳴っている。
うるさいな、と頭の片隅でぼんやり思った。誰だか知らないけれど、早く止めてくれたらいいのに。
ピピ、ピピ、ピピ。
目覚ましの音が少し大きくなった。
うるさい。うざい。
今、一体、何時?
ううん、その前に今日はいつだっけ?なんだかずっと休んでない気がする。
重くて重くて仕方がない瞼を、必死でこじあけた。
天井。見慣れた、自分の部屋の。
霞む視界のまま視線をずらす。左手の壁の方へ。
そこには日めくりカレンダーが掛けてあって。カーテンから漏れる薄明かりの中、“11”と黒々とした数字が見えた。
11。……11?!
「やだ、月曜日?!」
あたしは慌てて飛び起きた。
六月十一日、月曜日。
カレンダーをもう一度、確かめる。間違いない。
月曜日は、朝一にミーティングがあるからいつもより十五分は早く家を出ないといけない。のんびり寝過ごすヒマなんか、なかった。
いまだに鳴っている目覚ましを止め、大急ぎでパジャマを脱ぐ。その瞬間、
(あれ?なんだか……同じことを何回も繰り返している気がする)
と、着替えながら思った。寝起きがいいのはあたしの自慢で、今まで寝過ごしたことなどなかったはず……なのに。
どうしてだろう?
言葉に出来ない奇妙な不安が胸を過ぎったけれど、あたしは軽く頭を振った。考えている余裕はない。そして急いで仕度をしているうちに、気持ちの悪いもやもやは薄れ、消えていった――。
2007.10
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