鼻ヒゲ

「はかせ。あや、おひげがほしい」
「……ひげ」
 それは、唐突だった。正月明けの、ある寒い日のことである。
 僕について研究室まで来た綾が、博士の顔を見てふいにそんなことを言ったのだ。博士はといえば、綾の言葉を受けて至極真面目な顔で僕を振り返る。
「ひげというのは、つまり、この頼りない北村君の顔へ威厳をつけたい、ということなのかな?」
「いやーん。きたむらくんじゃないのー。あやなのー。あやのここに、おひげ!」
 綾は自分の鼻の下を指した。ご丁寧に、そばにあったタワシを持ち出して鼻先にくっ付けてみたりもする。
 ちなみに、綾は父親である僕のことを“きたむらくん”と言う。これは偏に博士の影響である。
 ―――ともかくも、博士は綾のこの珍妙なる願いに、大きく頷いた。
「そうか、綾ちゃんは口髭が欲しいのか。……ふむ。そうだな、毛生え薬と永久脱毛剤は人類の永遠のテーマ。世界一の大科学者たるこの儂が未だ触れたことがないというのは奇怪しい。良かろう。他ならぬ綾ちゃんの頼みだ。今から早速取りかかることにするよ」
 それまでおとなしく実験の準備をしていた僕だが、さすがにその瞬間、思わず手にしていたフラスコを落としそうになった。
 それをなんとか堪え、憤然と博士に喰ってかかる。何が悲しくて三歳の可愛い娘にヒゲなんぞ欲しいものか。
「博士!本気にならないで下さいよっ。女の子にヒゲなんて、冗談じゃない」
「何を言う、北村君。人類は昔、皆猿だったのだ。ヒゲどころか全身毛むくじゃらじゃわい。今更ヒゲくらいで何を恥ずかしがる」
「どーゆー理屈ですっ」
 僕はがっくりと膝をつきそうになった。とはいえこればかりは、ハイ、そうですかと済ませられない。激しい脱力感にも負けず、僕は更に声を荒げた。まずは一番肝心な世間の一般常識について、韜々と博士に説いてみせる。
 
――――いつになく強硬な反対をする僕に、博士はいじけた仕種で“の”の字を書いた。
「ふん。こういう夢を理解しない大人が子供の将来を歪めるんじゃ」
「……」
 博士みたいな人間が子供を育てる方が、きっともっと歪むに違いない。

 綾のヒゲ発言から三日経った。

 その三日後の朝のことである。僕は研究室を掃除していて、偶然一本のビンを見つけた。持ち上げて見てみると、どうにも怪しい緑色の液体が入っている。
(もしや……)
 なんだか僕は嫌な予感に襲われた。あの博士が……僕の説教くらいでおとなしく引き下がるはずがない。考えてみればこの三日というもの、僕が帰宅した後、徹夜で何かゴソゴソしていたではないか。充血した目を不自然に逸らす博士が記憶に甦る。
(ヒゲ薬だ……!)
 僕は確信した。
 これはもはや、悠長なことなどしていられない。どこかへ捨てて……いや、似たような無害の液体に代えてしまおう。博士は、自信作が失敗に終わると二度とそれに取り組む気力を失くしてしまう。それをこの際、利用しない手はない。
 早速僕は、緑の液体をそっとトイレに流して捨てた。そして、濃い砂糖水に食品用の着色剤で色をつける。すると、どうにかこうにか、どろっとしたヒゲ薬に似た液体が出来た。これならば顔に塗ろうが飲んでしまおうが、完全に安全だ。
 僕はにんまり微笑んだ。

「あー、北村君。綾ちゃんはその、元気かね」

「は?綾ですか?元気ですよ。それがどうかしましたか」
「うん、いやなに、この頃顔を見ていないなあと思ってな」
 ……よく言う。綾が研究所に来たのはつい三日前ではないか。しかし僕は素知らぬ振りで、「ああ、そういえば明日は妻が友人とショッピングに行くんですよ。だから綾をここへ連れて来ることになると思います」などと答えるのだった。
 ―――勿論、妻がショッピングとは真っ赤な嘘である。それどころか、ヒゲ発言を聞いた妻は、綾を二度と研究所に連れて行くなと怒り出したくらいだ。他に類を見ないくらいのオシドリ夫婦であるという自負は、ヒゲのせいで危うく壊れるところであった。
 けれどまあ、今はそれはどうでもいい。とりあえず重要なのは、妻をどう誤魔化して綾を連れ出すか、だ。
 綾にヒゲの生えることは絶対ないとどんなに妻に説明しても、恐らく聞き入れてくれる筈はないからである。それほどまでに妻の怒りは深いのだ。僕としても、下手に刺激して離婚になることだけは避けたかった。
 そういう訳で僕は普段通りに振るまいながら、その日一日、目まぐるしく頭を働かせることとなった。
 ところが。
 事態は思いもかけない方向へ進んだ。
 僕にも、そして博士にも。

 ―――そろそろ、片付けをして仕事を終えようとした時のことだった。僕は、博士の鼻が妙に黒いことに気付いたのだ。

「?……博士、鼻が汚れて―――」
 しかし言葉は途中で掻き消える。僕はなんだか日本語を忘れてしまったようだった。
「北村君?どうした?」
「それ……まさか……」
 ポツポツと黒いもの。鼻の頭のてっぺん。
「毛が……いや、ヒゲが……?」
「なに!?」
 博士は慌てて鼻に手をやった。そしてあたふたと周囲を見渡し、実験器具の中から反射鏡を取り出す。
 まじまじと自分の顔を見やって、博士は愕然と呟いた。
「本当だ、ヒゲだ……。もしや、あの時撥ねた液が鼻についたのか?」
 ―――しまった。
 我に返って、僕は真っ先にそう思った。これでは、計画はおじゃんだ。このヒゲは、博士の秘薬が成功したという証に他ならない。僕が用意した偽薬は勿論、ヒゲが生える訳もなく、そうなると僕の行為が発覚するのは当然の成り行きではないか。
 ああ、すると博士はもう一度ヒゲ薬を作り直し、綾にヒゲが生えてしまうのだ……!
 僕は焦りと緊張からか、手がむずむずした。もう、泣くしかない気分だった。
「あー、えー、北村君。ヒゲ剃りはなかったかね」
 そんな僕の心中を知らず、博士が上機嫌の声で言う。満足げな顔付きで、鼻の頭なんかをすりすりしている。
 僕はといえば、むっつりしながら剃刀を探し出し、博士へ手渡す。博士は鷹揚に頷いて受け取り、器用に鼻の頭を剃った。
 ……それにしても、僕は一体どうすればいいのだろう?彩にはヒゲが生え、学校で虐められ嫁にも行けず、そして破滅の一生を送ることになってしまうというのに。妻は勿論、家を出て行き、僕はそれを嘆きつつ惨めな死を迎えるのだ……。
 ふいに僕はそこら中の実験器具を破壊してやりたい衝動にかられた。たかがヒゲで、何故こうも不幸にならにゃならんのだ?
 悲嘆に暮れつつそう考えたところで、僕はまたもや、博士の鼻が黒いことに気付いた。
「は、博士?もう、ヒゲが生えてきているみたいですけど」
「なに!?」
 博士は仰天して鼻を触る。確かに存在するヒゲに、博士はううう、と短く唸った。そして慌てた様子で再び剃刀に手を伸ばす。
 ―――約一時間後……。
 博士はいまだに、ヒゲを剃っていた。
 剃っても剃っても、すぐにヒゲが生えてくるのである。仕舞いにはさすがの博士もブチ切れた。
「ええーい、このうっとおしいヒゲめっ!」
 いきなり叫び出して、(偽の)ヒゲ薬が入ったビンを投げつけてたのだ。
 がちゃーんと派手な音を立ててビンは粉々に割れた。緑の液体がびちゃびちゃ飛び散る。この時の、僕の安堵の気持ちはどれほどのものだったろう。博士の短気に万歳ってなものかも知れない。
 にやにやしそうになるのを抑えつつ、早速僕は残骸の掃除を始めた。証拠隠滅は早いに越したことはない。
 その僕の後ろで、博士はあちこちへ当り散らしながら猛然と研究机に向かった。恐らく、まだ取り掛かっていなかった永久脱毛剤を作るのだろう。……完成までに、鼻のヒゲが胸元まで伸びないといいが。
 さて、液体を綺麗に拭き取り、ビンの破片を片付け終わった時のことである。僕は、どうにも手がむずむずしてしようがなくなってきた。そういえば先程からおかしい。何かにかぶれてしまったのだろうか?
 ひょいと掌を見てみると―――。
「うっわぁぁぁぁぁぁっっ!」
 びっしり。
 僕の掌一面、短い黒い毛……いや、ヒゲだらけだったのである!!

 さて、その後である。

僕と博士はどうなったのかって?
 ……はっきり言って、思い出したくもない。ヒゲ薬を三日で仕上げた博士なのに、永久脱毛剤の完成までに一ヶ月もかかってしまったからである。その間、僕は彩に嫌われ妻に気持ち悪がれ、外へ買い物にも行けない有様だった。ヒゲ薬を棄てる際の不注意がこの悲劇を招いたのである。
 一方、博士に至っては、笑いようもないくらい間抜けなご面相になっていたのだが、それは自業自得というものだろう。
 まあともかく、要は事件は無事片付いたということである。
 ちなみに、鼻の頭にヒゲの生えた自分の顔が余程気に入らなかったのだろう、博士は新たにヒゲ薬を作り直す気がすっかり失せてしまったようであった。万事メデタシ、メデタシだ。
 もっとも。
 これは内緒なのだが、どうやったものか、博士はどうやら耳たぶの後ろ側にも液をつけてしまっていたらしい。博士の白髪に混じって黒いヒゲがひょろりと―――耳たぶから生えているのを僕は見つけてしまったのである。まあ、面白いからしばらく放っておこう。もしもヒゲ薬再挑戦などという事態になった時には、引っ張ってやるといいかも知れないのだから……。