はね

 ある日、リカコが蛹になった。薄い膜に包まれ、深くコンコンと眠り出したのだ。それはあまりにも突然の出来事だったので、僕は初め、ただうろたえた。膜の―――繭の外側で必死に名前だけを呼ぶ。それでも彼女はピクリとも動かず眠り続け、その静かな横顔を透かし見て……僕はようやく思い至ったのだった。―――そう、リカコは蛹になったのだ。前からそんなことを彼女は言っていたではないか。
 そして僕は考える。
 人間は蝶と違う。たぶん、彼女が蛹でいる期間は長くなるはずだ。だけどいずれ彼女が羽化することを僕は知っているのだから……慌てず落ち着いて待っていよう。

 三年が過ぎた。
 暖かい風が吹き始めた日、僕は色とりどりのチューリップを携えてリカコの眠る白い部屋を訪れた。
 両手いっぱいの花に苦労しながら、扉を開ける。
 さわ……。
 ふいに春の風が僕の頬をなぶった。視界がカーテンの白一色になる。
 驚いて立ち尽くした僕の前に、少し痩せたリカコが、真っ直ぐ立っていた。背中には綺麗な白い羽
根を生やして。

「リカコ……」
 小さな呟きは全開の窓から通り抜ける風に千切れそうだ。
「ずっと花をありがとう、タカト君」
 以前と変わらぬ透き通った声でリカコは言う。
「私……羽化したんだ」
「そっか……」
 僕の言葉は、どこか別の場所へ行ってしまったようだ。待ちかねた瞬間だったはずなのに、何も言えやしない。
 天使にも似た白い羽根のリカコは、本当に綺麗だった。たぶん蝶の羽よりもリカコには似合っている。それだけを言葉少なに言った僕へ、リカコはふんわりと微笑んだ。
「タカト君には絶対見て欲しかったの。良かった。それじゃあ……私、行くね」
 ああ、やっぱり……。
 羽化した彼女はようやく本当の自由を手に入れたのだ。遠くへ行くことの出来る自由を。
 頭のどこかで解かっていたことだから、僕は小さく頷いた。羽化のできない僕では、彼女と一緒に行くことは出来ない。
 リカコは長い髪をかきあげ、もう一度僕にありがとうと言った。
 そして、軽やかな身のこなしで、窓から天へと、飛び立った―――。


'02.4.23