石川や浜の真砂はつきるとも世に盗人の種はつきまじ

 竹矢来(タケヤライ)の向こうに山と集った老若男女が居(イ)る。何(ド)の顔にも等しく好奇の色が仄見えた。五右衛門は無感動に其れ等(ソレラ)を見渡して心中密かに毒付く。
(金の為に人を殺す俺と芝居でも観る様な心持ちで刑死を見物する奴等と、一体何れ程の違いが在(ア)るってんだ?世の中なんざ、糞ッ喰らえ)
 文禄三年八月、京都は三条河原の事で或(ア)る。
 今、当(マサ)に刑に処されようとしている此(コ)の漢(オトコ)の名は―――石川五右衛門と云った。世に聞こえた盗賊団の頭目だ。
 
六尺を遥かに超える巨躯の持ち主である。元は近江の貧乏百姓の生まれで、“五郎兵衛”と云った。姓は無い。
 
五郎兵衛ではどうにも盗賊団の頭目として響きが悪いと、京へ来た時に“ゴエモン”と名乗ったのだが・・・・・・其れが先達て(センダッテ)伏見城から太閤の千鳥香炉を盗んで処刑された伊久地の石川五良右衛門と誰かが混同したらしい、何時(イツ)しか“石川五右衛門”が彼の通り名となって居たのだった。
 河原の砂利の上には巨大な釜が置かれて居た。中身は油である。熱し始めてそろそろ一刻も経とうかという頃合で、傍に居るだけでも可也り(カナリ)暑い。三条河原で罪人が裁かれるのは最早日常で在ったが此の“釜茹で”と云う方法は相当に珍しいからだろう、今や見物人は川の対岸にまで広がっている。
 役人等が心得顔で頷き合った。
 準備が整ったのだ。
 五右衛門は槍で小突かれながら組まれた足場の方へと追い立てられた。十数名の手下と、数名の身内の前を通る。恐怖で色を失った老母が、妻が、ぎらぎらと憎悪に滾った(タギッタ)目で睨み付けて居た。諦観の相の手下共とは対照的だ。何故共に処されるのか。声無き声でそう叫んでいるのが聴こえてくる。
(俺の奪ってきた金で薄汚く生きてきた癖に)
 五右衛門は独り言ちて口を歪める。
 ―――五右衛門以外は鋸引きの刑なのだそうだ。躰を土中に埋め頭だけを出し、首を鋸で引く。引きたい者は誰が引いても構わない。場合に依っては可也り長い間苦しむ刑である。憎悪の念も故無き事では無い。
 其れにしても、此れが坊主がしたり顔で説く因果応報と云うのだろうか。いや……然(ソ)うでもあるまい。太閤の指示に因る細かい検地、厳しい年貢の取り立て。百姓は貧苦に喘いで居ると云うのに役人等は労無く実を手に入れのうのうと居座って居る。彼(ア)れをこそ、仏が居るなら裁くべきではないか。
 其処まで考えて五右衛門は苦笑した。昼間に商人の恰好で町を彷徨(ウロ)つき金の有りそうな人物に当りを付け、夜になれば其の人物の家へ押し入って金品を根刮ぎ奪う。家中の人間は女子供の別無く皆殺しだ。そんな自分等に他人をどうこうなど言える筈も無いではないか。そもそも、捕まれば極刑を免れ得ぬのは重々承知して居た事である。今更命が惜しくなったと云うのか。……いいや違う、俺を責める彼(ア)の目が気に喰わぬだけの事なのだ。血塗られた金で喰い繋いで来た者達も又……俺と同罪であるのに。
 ただ―――。
 足場の上に立った五右衛門はふと居並ぶ咎人等に視線を向けた。縄手についた者達に混じる一つの小さな姿。まだ七歳の己が息子、弥太。彼れだけは―――哀れだった。此れから何が始まるのか、何んな目に遭うのかも解らずただ好奇心一杯の顔で回りをきょときょと眺めて居る。其れは一層哀れを誘った。こんな自分の子にしては邪気の無い素直な良い子で在ったのに。正面(マトモ)な親で在れば其れなりに良い人生を歩めた事だろうに。俺の子で在るということだけが、弥太の罪なのだ。鋸引きで苦しんで死なねばならぬ程の大罪なのだ。
「おい」
 五右衛門は釜の横で薪を焼(ク)べる男に低く声を掛けた。
「彼(ア)の餓鬼も此処(ココ)へ上げてくれ。俺の餓鬼だ。俺が一緒に連れて行く」
 死んだ魚の様な目で男は五右衛門を見返した。何を考えて居るのか、それとも何も考えて居ないのか―――しかし結局は役人等の元へ行き、何事かを告げる。役人等の暫しの相談の後、弥太は父の隣へ上げられた。幼い子供の首を引く事が彼等には躊躇われたのかも知れぬ。どうせ死ぬ事に変わり無いとはいえ。
 弥太が大きな瞳に僅かばかり不安の影を過らせて父を見上げた。五右衛門はにやりと笑んで―――弥太を釜へ突き落とした。

 スペインの貿易商アビラ・ヒロンは、『日本王国記』に於(オ)いて五右衛門の処刑について記述した。
 
五右衛門等一党の強奪振り、更に釜茹でという珍しい処刑法に目を引かれた為だ。
 
名打ての大盗賊は、其の最期の時に己が子を釜へ突き落とした。少しでも長く生きようとする足掻きと取ったヒロンは、此れこそ悪魔の所業と云うものだと会う人毎に告げたそうで有る・・・・・・。