記憶の中の日常

 始まりは、ほんの偶然。
『アルバイト募集。短期。年齢・性別不問。どなたでも出来ます。とても簡単な作業です。時給二千円。人の生活と文化史を綴る仕事です』
 それは、学校からの帰り道で。
 ふと目にとまった一枚のポスター。
 何気なく読んで、その時給の高さにビックリ。いまどき、なかなかこんなのはない。
 で、さっそく応募することにする。なんだかあやしげな気がしないでもないけど、この時給はすごく魅力的だからだ。

 白い部屋は広くて、光にあふれていた。

 なんとなく陰気なイメージを描いていた私にとって、それは少し意外だった。
 フローリングの床の上には、色とりどりのクッションがあって、そこに数人が思い思いにくつろいでいる。耳にはヘッドホン。音楽でも聴いているのだろうか?
 ほどなくして、私をここまで案内してくれたノッポのお兄さんが、みんなと同じヘッドホンを片手に戻ってきた。
「はい、じゃ、これを頭につけてくれるかな」
「はあ・・・・・・」
 意味がよくわからないながらも、とりあえず受け取る。そして、言う通りに頭につけた。
「で、どうするんですか?」
「―――そうだね、今日はまだ慣れないだろうから大変だと思うけど・・・・・まず、今日一日のことを思い出してもらおうかな」
「今日一日?」
 それが、仕事とどういう関係にあるんだろう?
 言葉には出さなかったけれど、私の考えたことがお兄さんにはすぐわかったみたいだった。
「ああ、ごめんごめん、ちゃんと説明をしていなかったね。・・・・・・えーと、ここでは人の生活文化についての記録と保存、及び研究を行っているんだ。生活文化なんてカッコいいこと言ってるけど、実際は流行っているテレビやマンガ、日常会話の中の流行語、どんな食事をしているかというような、本当に何気ないもの全般を扱っている。それこそが、本当の文化史というものだから。それで、それらの記録に使っているのがこれ、RCM―――Reading Contemplation Systemといって・・・・・・」
 お兄さんは私のヘッドホンをコンコンと叩いた。
「まあ、つまりは機械で直接思考を読み取ってコンピューターに入力してしまおう、というものなんだ」
「はあ・・・・・・」
「記録されたくないプライベートな部分については、思い浮かべてしまったらすぐにこの右側のスイッチを押してくれれば削除されるようになっている。簡単だろう?」
 お兄さんはニッコリ微笑んだ。
 私は素直に頷く。
「・・・・・・じゃ、さっそく始めてくれるかな」
「はい」

 こうして、私の奇妙なバイトが始まった。

 学校帰りに研究所へ寄り、二〜三時間過去を回想するのだ。
 非常にラクそうに思えたこのバイトは、しかしわずか四日目にして突如、終了を迎える。
 ―――どうしても、一週間前のことが、思い出せないのだ。
 朝起きて、学校に行って授業を受ける。友達と喋ってお昼を食べて、部活して家に帰る。毎日同じのその単調な生活が、私の記憶をすっかりぼやけさせていたのだった。
「うーん・・・・・・」
 ノッポのお兄さんはコンピューターの画面を見ながら、困ったように唸った。
「一週間前以上は思い出せない、か・・・・・・。でも一週間どころか、たった二、三日でも、君の記憶は随分曖昧なんだね。情報量も極端に少ない。こういう言い方はなんだけど、本当に学校へ行っているのかい?一日の行動が、まるでインプットされたみたいに一緒に見えるんだけど」
 お兄さんの言葉は、なんだか胸に刺さるようだった。
 私は何か言いかけて・・・・・・結局黙って俯くしかなかった。反論できるほどの過去なんか、私は持っていないのだ。
 ―――そして私はバイトを止め、いつもの生活に戻る・・・・・・。

1998.