その男の目は尋常ではなかった。
ギラギラと殺気がみなぎっている。・・・・・・きっとこれが、もう何人も殺人を犯してきた者特有の、狂
気に侵された眼に違いない。
私はつい先日から護身用に持ち歩き始めたナイフを構えた。これは、この日が来ることを予感して、携帯しだしたナイフである。
こんなもので対抗なんぞ出来ないだろうが、何もないよりマシだ。何といっても、相手は既に九人も殺している殺人鬼なのである。
「・・・・・・俺じゃあ、ないんだ」
喘ぐように男は初めて口を開いた。
「俺じゃあない。あれは・・・・・・あれはちがう・・・・・・」
一歩、二歩。そう言いながら男は私の方へゆっくりと近寄って来る。私の全身は冷や汗にまみれた。
情けないが、体が震えてくる。逃げ出さなくては、と思いつつも足が石になったように少しも動かない。
「何でこんなことになったんだ・・・・・・。俺は、来月結婚するはずだったのに・・・・・・。もう何もかもお終いだ・・・・・・」
ほとんどうわ言のように男が呻く。
一歩、また近寄った。
・・・・・・・来るな、私はまだ死にたくないんだ。
声にならない叫び。だが、男は更に前進してくる。
・・・・・・止めろ、来るな、来るんじゃない。このナイフが目に入らないのか?
―――恐怖で頭の中が白くなる。ナイフを持つ手が震えた。
・・・・・・駄目だ、来ないでくれ!!
心の中の絶叫。伸びる男の手。
恐怖、恐怖、恐怖・・・・・・!
・・・・・・嫌だ、冗談じゃない、私には妻や子がいるんだ死にたくないんだお願いだヤメてくれ死にたくない死ニタクナイ嫌ダアアアアアアアア――――。
真っ赤なナイフがあたしの視界を埋めた。
そのまがまがしい色は・・・・・・血の色。
狂気に捕らわれた男がそのナイフを振りかざした。あたしの方へ、そのまま突進してくる。
「いやああああ!」
叫んで・・・・・・あたしは目が覚めた。
・・・・・・そっか、夢だったんだ。ホッとそう思う。
そして、重い頭を振りつつ起き上がる。後はいつもの習慣通り、顔を洗い、着替え、朝食の用意をして新聞を取りに玄関へ行った。
何気なくそのまま新聞を手にする。
その時、あたしの目に幾つかの文字が飛び込んだ。
―――十人目、殺される!恐怖の連続殺人鬼―――
バサ。
心臓が止まりそうな衝撃を受けて、あたしは新聞を落とした。
・・・・・・夢じゃなかったんだ。あたしは・・・・・・見てしまったんだ。
ボンヤリと頭に昨日の夜の情景が浮かび上がり、あたしの背筋に悪寒が走った。
―――血走った目の男。見た目は普通のサラリーマンで、四十才くらい。・・・・・・その男の足元には一コの死体。ついさっきまで生きていた若い男。・・・・・・十人目を殺した殺人鬼は、まるで呆然としているようにナイフを見詰めていた。あたしも、今、見たものが信じられなくて動けないでいる。逃げないと・・・・・・十一人目にされてしまうかも知れないのに。・・・・・・殺人鬼が急に動き出す。ナイフの血を拭い、ポケットに入れ、回りを見渡したのだ。その瞬間、あたしと目が合った。殺人鬼がはっとする。何か、叫んだ。そしてあたしの方へ。あたしは。悲鳴を上げた。それから・・・・・・それから、こけそうになりながら、後も見ずに逃げ出した―――。
警察へ行くべきだろうか?新聞を読み終わって、あたしは思った。
犯人の手がかりは何もないという。だから、目撃者を探しているらしい。
でも・・・・・・。
あたしは、犯人の顔なんか、ほとんど覚えていない。どこにでもいそうなサラリーマンとしか、印象に残っていないのだ。どうしよう・・・・・・?
頭の中はすっかりパニックだ。
それでも、とにかく気を落ち着けて会社へ行く用意をする。道々、良い案を考えたらいい、と自分に言い聞かせて。
―――混雑しているプラットホーム。
もういい加減慣れているあたしは、うまく人波を泳ぐ。
こうしていると、昨日の夜のことはみんな幻だったよう。なんとなく、ほっとする。
そして、そのまま何気なく辺りを見渡した時だった。
ふと、記憶に引っ掛かるモノを感じた。
・・・・・・?
もう一度、首を回す。
その途端、体が硬直した。
「あ・・・・・・!」
小さな叫びが漏れる。
・・・・・・あたしを、暗い燃えるような目でにらみつけている男がいたのだ。
あれは・・・・・・。
あたしはかすかに震えた。記憶の中の一片が男と重なる。
どこにでもいそうな四十才くらいのサラリーマン。
なのにその目には狂気が宿っていて。・・・・・・血まみれのナイフが手に・・・・・・。
そんな・・・・・・。どうしよう?逃げ、逃げなくちゃ。
あたしはアイツの顔を見ている。殺されるに違いない。
人込みを押し分けるようにして、あたしは必死にその場を離れる。男が追ってくるのが分かった。慌てて人影に隠れるようにして、トイレへ駆け込む。
そしてそのまま一時間近く、トイレに籠城する。吐き気がして、倒れそうだった。
それからようやく決心して恐る恐るトイレから出た時には、嬉しいことに男の姿はなかった。
―――結局その日、あたしは会社を無断欠勤した。
無我夢中で辿り着いた家で、ただずっと恐怖に震えていたのだ。
だが、ずっとこのままではいられない。何とかしなければ。
警察へ行くのが一番だろうけれど、やはりあたしは男の顔が思い出せない。思い出すのはあの目、狂った獣の目だけ。あたしの記憶には目だけが焼きついている。
ともかくも、あたしは果物ナイフを手に取った。
朝のプラットホームで会ったということは、あの男はこの近所に住んでいる、ということだ。どこで会うか、分かったもんじゃない。
まずは友人宅に匿ってもらおうと、あたしはサングラスで顔を隠し、コートの内側で果物ナイフを握り締め、そっと家を出た―――。
「ち、ちがうのよ・・・・・・。あたしは・・・・・・!」
若いOL風のソイツは引きつった顔で僕に近付いた。
夜の公園。回りには誰もいない。
僕は、黙ったまま静かにじりじりと下がりながら、隙を探す。殺されるなんて真っ平ゴメンだ。
その時、どこかで犬の吠える声がした。
ソイツは、はっとしたように回りを見る。その瞬間、僕は駆け出した。
「待って!話を聞いて・・・・・・!」
切羽つまった叫びが聞こえる。でも、僕は振り返らない。あの狂った目を見れば、話合う余地なんて、必要ない。あの女こそが、今、世間を騒がしている殺人鬼だ。
だって、ついさっき、四十才くらいのおじさんが殺されるところを、僕はこの目で見てしまったのだから・・・・・・!
塾の帰り、寄り道なんてするんじゃなかった。
そうすれば、こんなこと、見なかったのに。
今、日本中を怯えさせている恐ろしい連続殺人鬼は、全く正体が不明だという。その上、人を殺す動機が完全に謎なのだそうだ。殺された人達は、男だったり女だったり年寄りだったり若かったり、共通点が一つもないらしい。使われた凶器も、種類が色々でこういうケースはあまり有り得ないのだとかいうのをテレビで言っていた。
それが、あんな普通の女の人だったなんて。おじさんだってたぶん信じられなかったんだろう。あの女がナイフを構えていたのに、簡単に刺されてしまったのだから。
―――僕は家へ帰り、部屋に閉じこもった。
さあ、どうしたらいい?
母さんに話したって絶対テレビの見すぎだとか言って本気にしてくれないだろう。じゃあ、警察?警察だって子供の言うことなんて信じてくれない気がする。
そうなると、僕は自分で自分の身を守るしかないってことだ。
きっとあの女は目撃者である僕を殺そうとするはずだからだ。今まで手掛かり一つないのは、そうやって目撃者を消してきたからに違いない。
僕はカッターナイフを取り出した。
いや、駄目だ、こんなんじゃやられる。もっと大きなしっかりしたナイフを持たなきゃ。
僕はカッターナイフを見つめながら考えた。相手は人殺しのプロなのだ。
・・・・・・よし、父さんの登山ナイフを借りよう。
悩んだ結果、僕は物置からこっそりと父さんの登山ナイフを引っ張りだした―――。
―――連続殺人鬼の凶行、未だ止められず。
現在の被害者総数は十七名、警察は一体何をしているのか―――?!