どこが、というでもなく全体的に疲れた重い体をおしての帰宅途中、ふと、小さな居酒屋が目についた。変わったところなどない、ありふれた店構えであったけれど、なんとなく私は足を向けた。毎日毎日、判を押すように同じで単調な生活のリズムに、飽きがきていたのかも知れない。ただともかく、妻と子が待つ家へ、まっすぐには帰りたくなかった。「いらっしゃい」
―――迎えてくれたのは、もう白いものがチラホラと混じりかけている女将。
店内の客は、わずか一人だ。
まだ、二十歳そこそこだろうと見えるその青年は、店に入ってきた私を見て愛想良く頭を下げた。生真面目そうな雰囲気の青年で、なんとなくこういう居酒屋とはそぐわない気がする。
しかし青年は、にこにこと自分の隣の席を示し、
「もし良かったら、一緒に飲みませんか」
と、穏やかな口調で話しかけてきたのだった。
気がつけば女将を交えて三人、様々な話で盛り上がった。
仕事のこと、スポーツのこと、流行の歌のこと。
青年の話術は巧みで、話題は豊富だった。
「―――そうそう」
さて、そろそろ帰らねば、と腰を上げかけた私に。
眼鏡を掛け直しながら、青年は急に思い出したように声を上げた。
「……何か?」
「いえね、最近、日本人の目って悪くなってきているでしょう?どうしてだと思います?」
「さあ。……勉強のしすぎ、テレビの見すぎが原因じゃないのかな」
戸惑いつつ出したしごくまともな私の答えに、青年は静かで不思議な笑みを漏らした。
「うーん……間違いではないですけど、正解でもないですね。答えは―――遠くを見ないため、ですよ。遠くが見えてしまったら……もし周りがきれいにはっきり見えてみまったら……ここにはいたくなくなってしまいますから」
その時の私には、青年の言葉に意味がよくわからなかった。
だけどそれ以後。
ふとした拍子に彼の台詞が浮かんできて、その度に私はボヤけた目をこすりつつ、青く美しい空を見上げているのだった。目が良く見える自分というものを想像しながら……。