のっぺらぼう

 もうどのくらい前になるだろう?
 うだりそうに暑い八月のある日、私は偶然奇妙な喫茶店を見つけた。まるでただビルとビルの隙間のようにしか思えない狭い路地の中ほどの、ひっそりと目立たない、その喫茶店を。
 喫茶店の名は『迷い家』といった。
 それが遠野物語に出てくる山中の不思議な家に因んで付けられたと知ったのは後のことである。

「いらっしゃい」

 色ガラスの扉を開けて落ち着いた色調の店内に入ると、マスターの優しいテノールが響く。
「アイスティー」
 指定席ともいえるカウンターの隅っこに腰掛けながら、私は短く注文をした。マスターは黙ったままさっさとアイスティー作りに取りかかる。
 無愛想というのか、基本的にあまり喋らないこのスタイルがここの売りだった。実は意外とマスターはお喋り好きではあるのだけれど。……とはいえ、私にはマスターが喋れるということの方がいまだに何倍も不思議な気がする。何故なら……マスターは『のっぺらぼう』だからだ。
 冗談を言っているのではない。
 喫茶『迷い家』の主人は、妖怪なのだ。正真正銘、小さい頃、怪談で聞かされたあの『のっぺらぼう』なのだ。
 初めは本当にビックリして腰を抜かした。しかし、結構多くの妖怪が人間に紛れて暮らしているのだと聞かされて、なんとなく私は納得してしまったのだった。考えてみれば臼井課長は大入道のようだし、平野さんだって雪女のようだし……。
「そうはいっても」
 けれども最初の衝撃が去って少し落ち着いた私はこう聞いたものである。
「こんなに堂々と店をしていて大丈夫なんですか?テレビではほら、怪奇特集なんてあったりするじゃないですか。ああいうネタにされてしまったら、大変そうな気がするんですけど」
 その時マスターは、かすかに含み笑いをしたように思う。表情がないのではっきり解からないけれど。
「大丈夫ですよ。大抵の人はふざけているのだと勝手に勘違いしてくれますから。妖怪なんて、今じゃ迷信ですしね。……そもそも、この喫茶店に訪れる人間は、年に一人二人いればいいところですよ」
 ――確かに、こうあからさまだと普通は本物の妖怪だとは信じないのかも知れない。マスターが言うには、この頃で私ほど大袈裟に驚いた者は珍しいということだった。実をいえばその後も何度か私は腰を抜かしているのだが――迷い家には一つ目小僧やろくろっ首といった妖怪達がよく来るからだ――今ではさすがに肝が太くなって怪獣が現れても驚かない自信ができていたりする。

 迷い家で、私は何をするでもなくただ漫然と時間を過ごすことが多い。
 マスターの淹れるコーヒーや紅茶は美味しいし、何時間でも喋らずにぼーっとしていられるのがいい。またその反対に、喋りたい時にはマスターがいつまででも付き合ってくれた。色々な妖怪達の「近頃の人間ときたら……」という話を聞くのも面白い。だからだろうか。
 ところで、今日ここへ来たのは仕事でむしゃくしゃすることがあったからだ。
 ボタンを掛け違えたように、どこか一つがおかしくなったせいで何もかもがうまくいかなかった。
 別に愚痴が言いたいとか、そういうことではない。ただ、なんでもいいからおもしろおかしい話で気を紛らせてみたかったのだ。
 マスターはそんな私の気持ちを知ってか知らずか、いつもと変わらず無表情に淡々と相手になってくれた。
 そうしてとりとめもない話で一時間ほど経った時だったろうか。
 私はふと前から思っていたことを口にした。
「ところでマスター。友人に特殊メイクの勉強をしているやつがいるんだけど、そいつにね、顔の仮面を作ってもらうっていうのはどうだろう」
 マスターは、ぴたりと口をつぐんだ。突然の沈黙に私は少し驚いた。そして同時に居心地の悪さを感じて身を縮める。私は、気分を害するようなことを言ってしまったんだろうか。
「――――仮面の必要はありませんよ」
「はあ。あの」
 マスターはいつもと同じ穏やかな口調だ。なのに私は、思わず弁解を始めていた。
「ほら、さわぎたてる人がいたら、被ってごまかすことができるかなと思って」
 マスターは片付けかけていたカップ類をそのままそっと置いて、ゆっくりと私の真正面に向き合った。
「益池さん」
 それは深く澄んだ湖のような声だった。
「私はね、あなた達のように泣くことも笑うこともできないから悲しく思うことが時々あるんですよ。でも―――その代わりに誰かの前で無理に笑うこともないんです。そういう、自分がいいと思うんです。あなたの好意は十分わかっているのですが……」
 マスターは静かに小さく頭を下げた。
「私は私らしく、このままでいきます。私はこんな私が好きなんです。例え作り物でも、私は顔が欲しくないんですよ」
 私は何故か胸を突かれた。だけどなんとなくマスターの言う意味を理解した。
 そして……もしかしたら私も顔が欲しくないのかも知れないと、ふと、思ったのだ……。


01.7.14 sat.