リセット

「あの時だ。あの時に数字を間違えなかったら、オレの人生はもっと違うものになっていたんだ」
 裏ぶれた一杯呑み屋で、少し呂律の回らなくなった男がビール片手にボヤく。酔いが回るとその男はいつも同じ愚痴を繰り返す。だから店の親父は取り合わない。
「なあ、親父!聞いてるか?!オレはなぁ、本当ならこんなシケた呑み屋にはいなかったんだぞ?!百万長者だ、億万長者だ、大金持ちだったんだ!」
 ドンッ。
 叫んでから拳を振り下ろして、がっくりと俯く。しばらくして懐から皺くちゃの紙幣を取り出しテーブルに置いた。
 親父は黙って釣り銭を渡す。
 男はそれを引っ掴むようにして取り、店を出た。
 ビュウウウ・・・。
 木枯らしが吹き、男は身を縮める。寒いのは懐だけではない。
 砂埃が入ったのか、何度か目を瞬かせる。その時、ちょうど人とぶつかりそうになった。
「危ねえだろ!」
 振り向きざま、いらいらした口調で怒鳴る。
「これは失礼。少し、考えごとをしていたもので」
「あ?」
 返ってきた答えは予想外に妙に気取った調子のものだった。思わず眉を寄せ、目前のひょろりと細長い影を見透かす。
 黒いスーツ。スキなくぴったりと着こなし、オールバックの髪を一筋の乱れもなく後ろへ撫で付けている。年は・・・四十代後半・・・いや、よく見れば二十代だろうか。が、若いとも年を取っているとも判じがたい。なんとなく薄気味悪い印象の男だった。
「かなりアルコールを召し上がっているようですね。何か鬱憤でもおありですか」
「・・・あんたには関係ないだろう」
 馴れ馴れしく話しかけてくる態度も気味が悪い。相手をせず、さっさと通り過ぎようとした。だが。
「そう警戒なさらずともいいではありませんか」
 黒い男はすすすとにじり寄ってきた。音もなく滑るように。
「失礼ですが、なんだかあなたと私は他人事のような気がしないのですよ」
 細い目でじっと覗き込み、得たいの知れない笑みを浮かべる。その目が深い深い奈落の底のような闇色で、男は突然、呑まれたように動けなくなった。
 かろうじて怯えを隠した声を絞り出す。
「あんたに会ったことは一度もない、ほっといてくれ」
「もちろん!」
 黒い男は更に笑みを深めた。
「もちろん、会ったことはないでしょう。そうではなく、境遇がね・・・今はいない昔の私と、今のあなたとの境遇が、とても似ているような気がしまして」
「どういう・・・意味だ?」
 問い返さない方がいいと思いながら、身動きの出来ない男は掠れ声で呟く。黒い男は目を細めた。上辺だけでなく今度こそ本当に笑ったのかも知れない。
「私はね、以前とても大きな失敗をしたことがあるんです。人生最大の過ち、というヤツですよ。それさえなければ・・・それさえ上手くいっていれば、金も地位も手に入っていた」
 どきん。
 男の心臓が波打った。
「ほんの少し、道を違えただけで残りの人生、ぼろぼろです。でもね」
 黒い男は言葉を切り、薄く唇の端を持ち上げた。
「私はやり直すことが出来たんです。もう一度、始めから」
「やり・・・直し・・・?」
「ええ、やり直しです。言葉的意味でなく、時間ごと巻き戻して」
 なんだか、からかわれているようだ。
 闇がますます濃くなった気がした。
「金も地位も名誉も・・・私は今、全てを持っている。あなたも・・・私と同じように、やり直したくないですか?もう一度、時間を巻き戻して・・・」

 ワァァァァッ・・・・・!
 歓声と怒号と紙吹雪と。
 興奮の坩堝と化している周囲から取り残されたように、男は白い顔色で己の手の内を見詰めていた。たった五枚の紙切れ。今、これが莫大な額の金へと変わったのだ。
 まだ、夢を見ているような気がする。
 ほんの数時間前まで、自分は薄汚れた路地裏に立ち、そしてそれに相応しい薄汚れた格好をした中年の男だったのに。
 だが、奇妙な黒い男の差し出した銀色の砂時計を一回ひっくり返したら・・・瞬く間に時が巻き戻り、二十七年前の向こう見ずで血気盛んだった二十代の自分へと戻ったのだ。何もかも失う、あの運命の三時間前の自分へと。
 男は喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
 気を静めながら、もう一度手の中の馬券を確かめる。
 間違いない。この番号だ。
 これで、何もかも上手く行く!
 ―――初めはサラ金から借りた二十万だった。それがみるみる内に膨れ上がり、ほんの少しだけとその場しのぎの為に会社の金に手を付けた。一発当てればすぐに返せる算段だったが・・・負けがこんで、もう後がないところまで追い詰められていた。
 そう、そして最後の賭けに破れ、週明けの監査で使い込みが明るみに出、何もかも失うのだ。―――いや、違う。もはやその未来は、無い。あれは夢だったのだ。自分は今、ここに居る。二十代の若さと夢と金を持った自分が・・・!

 まるで喪服のような黒いスーツをぴったりと着た細長い男の前に、薄汚れた一人の男が現れた。
 裏ぶれた狭い路地、凍えそうに冷たい風が吹き抜ける。
「あんただ・・・。そう、あんたを待っていたんだ!」
 薄汚れた男は、喘ぐように呟き、黒い男に駆け寄った。
「いつ、あんたに会えるのかと、ずっとずっと、待っていたんだ」
 オールバックの髪を一筋の乱れなく後ろへ撫で付けている黒い男は、ゆっくりと目を細めた。
「・・・失礼ですが、どちら様です?初めてお目にかかると思うんですがねえ」
「ああ、初めてさ!あんたにとってはな。だが、あんたとオレはここで出会う決まりなんだ!」
 薄汚れた男は叫び、震える手で黒い男に縋った。顔全体が熱に浮かされたように、ひどく紅潮している。黒い男は不思議な笑みを浮かべ、悠然と縋りつく男の手を取った。
「どうもよく分かりませんが・・・まあ、話を聞きましょう。何か、特別な事情がおありのようだ。私はとても良い運に恵まれましてね。もしかするとあなたにも分けてあげられるかも知れない」
 薄汚れた男は、目にうっすらと涙を浮かべ、何度も何度も頷いた。
「頼む。あんたの・・・あんたの良い運が、オレにはもう一度必要なんだ。是非・・・分けてくれ・・・!」

 びゅうううう・・・。
 北風が音をたてて吹きぬける。体を芯から凍らせそうだ。
 道の端で灰色の塊がわずかに動いた。襤褸切れのようなそれは・・・一人の男だ。黒く汚れ、擦り切れた毛布を掻き合わせ、小さく小さく身を縮める。
 カツッ。
 軽やかな靴音がした。
 男がどんよりと視線を上に向ける。上へ向け・・・そのまま身体を硬直させた。
「大丈夫ですか。余計なお世話かも知れませんが、良かったら、何か暖かいものでも召し上がりませんか」
「やめて・・・くれ・・・。オレに構わないでくれ・・・」
 怯えた声音の返答に、ほっそりとした黒尽くめの男は軽く首を傾げる。
「いえまあ、無理強いをするつもりではありませんがね、私、今日は大きな契約を一つ取りましてね、懐が暖かいんですよ。この喜びを誰かに分けたいと思いまして。突然で驚かせてしまいましたかねえ。ご迷惑なら、すぐにでも去りますよ。でも少しだけ、私の話を聞いてみませんか、もしかすると貴方に良い話を出来るかも知れない。そう、暖かい酒でも飲みながら」
 気を悪くした様子もなくやんわりと笑みを浮かべ、黒い男はぼろぼろの男の前に腰を落とす。
 ぼろぼろの男はわなわなと身を震わせた。
「どうして・・・どうしてオレの前に現れるんだ?!もう・・・もうオレは戻りたくないんだ・・・何度やり直しても、やり直した瞬間から新しい展開が始まって、そこから先は解らない。するとオレは必ずどこかで間違える。そしてどんどんオレの人生は悪くなる・・・!」
 掠れた声で悲痛に叫び、男は両手で顔を覆った。嗚咽がそこから小さく漏れる。
 一筋の乱れもなく撫で付けられたオールバックの髪に軽く触れながら、黒い男は困ったように眉を寄せた。
「どうもよく分かりませんが・・・もしかして貴方は私と会ったことがおありですか?」
「あるともさ!何度も、何度もな!」
 がばりと身を起こし、ぼろぼろの男は血走った目を黒い男へ向ける。憎しみとも恐怖とも取れる色がその目には溢れていた。
「どこにいても、あんたとは出会うんだ。どれほどオレの人生が変わっても、あんたにだけは、出会うんだ。何故だ?!え?何故なんだ・・・?!」
 黒い男は目を細める。闇の色の目は、ますますその色を濃くした。
「私にとって、貴方との出会いは今、この瞬間だけですよ。そう、でも・・・貴方はもはやこの銀の砂時計を必要とされていないという訳ですね。分かりました。では、私は黙って立ち去ることにしましょう」
 静かに話し、音もなく立ち上がる。
 途端にぼろぼろの男は震える手を黒い男に伸ばした。
「いや・・・いや、ダメだ、待ってくれ・・・・・!!」
 叫んでから、男は躊躇うように何度か唾を飲み込んだ。伸ばした手が中途半端に空中を彷徨う。
 黒い男は、ただ黙って蹲る男を見下ろす。
「オレは・・・オレは―――・・・・・・・・」
 ぼろぼろの男は、つかえながら言葉をゆっくりと押しだし―――・・・。


'05.4.24