山藤京子(サンドウキョウコ)の優雅な一日 =あなたはどちらを選びますか?=
 ゴッ。
 玄関を出ようとした瞬間、くぐもった妙な音がした。京子は自分の足元へ目を走らせ、ため息をついた。
「あーあ、カカト取れちゃったー。このパンプス、お気に入りだったのに」
 ぶつぶつ呟きつつ、仕方がないのでそのパンプスを脱いで別のものを棚から引っ張り出す。
「ま、いっか。これであの欲しかったパンプスが買える口実になるもの」
 肩をすくめ、京子は腕時計に目を向けた。
「いっけない、早く行かないと遅刻だわ」

 急いで階段を駆け上がり、電車に乗り込む。乗り込むと同時に扉が閉まり、電車はゆっくりと動き出した。滑り込みセーフだ。とはいえ、いつも乗る電車よりも一本遅い分である。
「でも会社まで早足で歩けば間に合うわね。良かった!最近、運動不足だったから、ちょうどいいかも」
軽く息を弾ませながら一人呟く。
 やがて目的の駅に着き、京子は急いで駆け出した。
 9時始業、会社に辿りついたのは5分前。何気ない顔で席に座り、書類を広げる。
「おはよう、山藤さん」
「おはようございます、広野係長」
 やや口煩いきらいのある広野登美子が、にこやかに京子の背中を叩いて通り過ぎて行った。
(なんだか今日は機嫌がいいみたい。ラッキー!)
 小さく舌を出す。
 それから午前中の業務は、息をつく暇もないほど目の回る忙しさだった。年度末で処理しなければならない書類が山ほどあるのだ。
「金山くん。ここ、印鑑が抜けてるわ。それからこの書類、3部コピーするよう頼んだはずなんだけど」
「あ!す、すみません!す、すぐもう1部コピーしてきます」
 今年入職してきた金山健雄は、そろそろ1年が経つというのにいまだに初歩的ミスが多い。慌てて走っていく後ろ姿を眺めて、思わず小さな溜め息が漏れた。
(まあ私も1、2年目は失敗だらけだったもんね。人のことは言えないや・・・)
 さて昼からは会議である。
 書記なので気は抜けないのだが・・・まるで禅問答のようなやり取りがずっと続いている。議題の進展は全くない。必死で書き取っているものの、眠気がゆるゆると襲ってくる。
(昨日、もっと早く寝れば良かった。ああ、部長の声って子守唄みたいだよぉ。今なら5秒で寝れるわ・・・。今度会議を録音して、寝れない時に使ってみようかしら)
一生懸命あくびを噛み殺し、閉じようとする目を無理矢理開く。
 そうこうするうちに、ようやく会議が終わった。しかしほっとする余裕もなく、本来なら昨日までに経理へ提出しなければいけなかった書類の作成に取り組む。
「あと、議事録も作らなきゃいけないし・・・これはもう残業ね。早く終われるよう、がんばらなくっちゃ!」

 21時近くになってようやく仕事の片がつき、京子は大きく息を吐いた。
「お疲れさん。どうだい、帰りにちょっとだけ飲んで帰るかい?」
 大きなお腹を揺すりながら、同じく残業をしていた石岡譲課長が言う。京子は少し考えてから頷いた。
「そうですね、もうお腹ぺこぺこです」
(課長もこのところ毎日残ってて、大変よねえ。その上、部下にも細かく気を使ってくれるんだから)
 この1年ほどでめっきり薄くなった頭頂部をちらりと見て、こっそり思う。
 急いでデスクを片付け、石岡とともに退社する。駅の近くの小さな居酒屋で小1時間ほど飲んで、帰宅した。
「もう11時!つっかれた〜!今日も良くがんばったぞ、私。日曜日にはご褒美にパティスリーMのケーキを買おう」
 ぶつぶつ呟きながら、一人暮らしの気安さで、適当に服を脱ぎ散らしながらシャワーを浴びる準備をする。バッグを部屋の片隅に放り投げ、郵便物に目を通す。くだらないダイレクトメールばかりだ。
(こういうのも処理に結構手間がかかってるだろうな、なんて考えたら全然目を通さず捨てるのって気が引けちゃうなあ)
 それから急いでシャワーを浴び、髪を乾かしてベッドにもぐりこんだ。
「今日は課長に奢ってもらっちゃったし、ラッキーな日だったかも!」
 半分無意識で目覚ましをセットし、京子はすぐに深い眠りについた―――。


2005.9



123  ゴッ。
 玄関を出ようとした瞬間、くぐもった妙な音がした。京子は自分の足元へ目を走らせ、ため息をついた。
 「あーあ、カカト取れちゃったー。このパンプス、お気に入りだったのに」
 ぶつぶつ呟きつつ、仕方がないのでそのパンプスを脱いで別のものを棚から引っ張り出す。
「あーもう、絶対信じられない。なんで朝からこんなにツイてないのよ」
 肩をすくめ、京子は腕時計に目を向けた。
「いっけない、早く行かないと遅刻だわ」

 急いで階段を駆け上がり、電車に乗り込む。乗り込むと同時に扉が閉まり、電車はゆっくりと動き出した。滑り込みセーフだ。とはいえ、いつも乗る電車よりも一本遅い分である。
「これじゃ、降りた後も急がないとダメじゃない。仕事する前にくたびれちゃうわよ。サイアク〜」
 軽く息を弾ませながら一人呟く。
 やがて目的の駅に着き、京子は急いで駆け出した。
 9時始業、会社に辿りついたのは5分前。何気ない顔で席に座り、書類を広げる。
「おはよう、山藤さん」
「おはようございます、広野係長」
 やや口煩いきらいのある広野登美子が、にこやかに京子の背中を叩いて通り過ぎて行った。
(わざとらしいわね。はっきり嫌味でも言えばいいのに)
 小さく舌を出す。
 それから午前中の業務は、息をつく暇もないほど目の回る忙しさだった。年度末で処理しなければならない書類が山ほどあるのだ。
「金山くん。ここ、印鑑が抜けてるわ。それからこの書類、3部コピーするよう頼んだはずなんだけど」
「あ!す、すみません!す、すぐもう1部コピーしてきます」
 今年入職してきた金山健雄は、そろそろ1年が経つというのにいまだに初歩的ミスが多い。慌てて走っていく後ろ姿を眺めて、思わず小さな溜め息が漏れた。
(いい加減にして欲しいわ。いちいちチェックするこっちの身にもなれっての)
 さて昼からは会議である。
 書記なので気は抜けないのだが・・・まるで禅問答のようなやり取りがずっと続いている。議題の進展は全くない。必死で書き取っているものの、眠気がゆるゆると襲ってくる。
(ああもう、いつまでくだらないこと言ってんのよ。部長もぐだぐだワケ分かんないし。こんなの聞いてるくらいなら、坊さんのお経の方がよっぽど有難いわよ)
 一生懸命あくびを噛み殺し、閉じようとする目を無理矢理開く。
 そうこうするうちに、ようやく会議が終わった。しかしほっとする余裕もなく、本来なら昨日までに経理へ提出しなければいけなかった書類の作成に取り組む。
「あーあ、今日は残業じゃん!あと、議事録も作らなきゃいけないなんて、考えるだけで気が滅入ってくるわ・・・」

 21時近くになってようやく仕事の片がつき、京子は大きく息を吐いた。
「お疲れさん。どうだい、帰りにちょっとだけ飲んで帰るかい?」
 大きなお腹を揺すりながら、同じく残業をしていた石岡譲課長が言う。京子は少し考えてから頷いた。
「そうですね、もうお腹ぺこぺこです」
(こんなオッさんと二人で飲みに行くのなんて出来れば勘弁して欲しいわ。私に気があるなんて言わないわよね?)
 この1年ほどでめっきり薄くなった頭頂部をちらりと見て、こっそり思う。
 急いでデスクを片付け、石岡とともに退社する。駅の近くの小さな居酒屋で小1時間ほど飲んで、帰宅した。
「もう11時?やってらんないわ・・・。仕事、辞めようかな。どこかに金持ちのイイ男が落ちてたらいいのに!」
 ぶつぶつ呟きながら、一人暮らしの気安さで、適当に服を脱ぎ散らしながらシャワーを浴びる準備をする。バッグを部屋の片隅に放り投げ、郵便物に目を通す。くだらないダイレクトメールばかりだ。
(毎日毎日、ゴミが増えていくばっかり!イライラしちゃう。こんなのいちいち見てるヤツなんていないっての)
 それから急いでシャワーを浴び、髪を乾かしてベッドにもぐりこんだ。
「どうかこんなサイテーの生活から、早く解放されますように・・・」
 半分無意識で目覚ましをセットし、京子はすぐに深い眠りについた―――。