幸せのため息
「はあ〜」
 僕は大きなため息をついた。季節は秋、ふらりと立ち寄ったある小さな児童公園でのことである。
 僕の気分とはまるでそぐわない冴え渡る青い空。囀る小鳥たち。取り囲む環境は一層、落ち込みに拍車をかけてくるようだ。
 そう、不運に見舞われているのは僕一人だけ、のようで。
 ―――― こんなことは誰でも一度は思うものなのかも知れない。だけど今日の僕は、本当に一日の始まりからツイていなかったのだ。
 まず、目覚ましが壊れていて寝坊。慌てて家を出た瞬間、買ったばかりの靴のヒモが切れた。続いて電車ではチカンと間違われ、挙句に会社へは遅刻。コピーは紙詰まりするし、書類の上にお茶をこぼすし、つまらないミスで上司からは叱られ、営業へ行けば行ったで小言に苦情ばかり。一度など、殴られそうにもなった。いいことなんて、ただの一つもない。気が滅入るのも当然だろう。
「はあああ」
 缶コーヒー片手に、僕はもう一度盛大に息を吐き出す。気がつけばため息ばかりだ。
 それよりも、こうやって公園で息抜きしているところを先輩なんかに見られたりしたら、きっとまた、お叱りを受けてしまうことだろう。わかっていたけど、僕は本当にもう、何もかもがイヤだった。できるならこのまま公園の木にでもなってしまいたかった。
「はー」
「すー」
「ふううう」
「すー」
(……あれ?)
 ふと、僕は首をひねった。重い息を吐き出す僕の横で、それに合わせるような奇妙な音が聞こえるのだ。
 くるりと顔を左へ向けてみる。
 すると、斜め後ろにいた細く小さな少年が、慌ててそっぽを向いた。―――なんだろう?
 僕は、ちょっとばかり気持ちがささくれだっていたことも手伝って、少々強い語気で少年に詰問した。
「君、そこで何をしているんだい」
 少年は(小学校1年生くらいに見えた)、一瞬、びくりと身を震わせた。そして、上目遣いで僕の顔色を伺う。そのまま目を逸らさずにいたら、しばらくして恐る恐るといった風の答えが返ってきた。
「えーと……おにーちゃんのため息を、もらっていたの」
「ため息?」
 たぶん、僕が露骨にうさんくさい顔をしたからだろう。少年は途端にうっすらと頬を赤くした。そして舌ったらずな口調ながらもいきなり、早口で喋りだす。
「うん、そうだよ。ため息だよ。……あのね、しってる?ため息ってね、一つついたらしあわせが一つにげちゃうんだよ。ボク、前にため息たくさんしちゃって ソンしたことがあるんだから。それで2がっきからは、ため息をしないで 反たいににげたため息をあつめてみることにしたの」
少年はそこで一息ついた。それから何故か一人頷き、言葉を続ける。
「やり方はね、すっごくかんたん。だれかがふうってしたら、よこで息をすってみるだけなの。ね、かんたんでしょ?……ボク、今日もいっぱいあつめたよ。だから、さんすうのテストは100てんだったし、きゅうしょくは大すきなカレ―だったし、しゅくだいもなかったんだ!」
 少年は、自慢気にぐいっと小さな体をそらした。
 その様子が可愛らしくて、僕は思わず微笑む。いらいらが、ふっと消えた。集めた幸せがカレーになったりするなんて、いかにも子供らしいじゃないか。
 だけど少年は、僕のそういう態度が気に入らないらしかった。むっとした顔になり、僕へ詰め寄る。「ボクの言ったこと、ウソだって思ってる!でもほんとうに、ためいきをあつめてからボクはいいことがいっぱいなんだよ。おにいちゃんだってためいきつくのやめて、あつめてみればすぐわかるのに」

 その日、僕はやっぱり、先輩にさぼっているところを見つかって、みっちり怒られてしまった。この頃の営業成績も良くはないから、そういうことまで細かく言われる。ツイていない日は最後までツイていない。 長い時間怒られ続け、なんだかずずーんと地の底まで落ち込みそうだ。だけど僕は結局その時、ため息は一つもつかなかった。それどころか、先輩がちくちく言いつつわざとらしくつくため息を集めてみたりしたのだ。もちろん、気づかれないようにこっそりと。
 そしてその日以降、僕は二度とため息をつくことはなかった。

 ……それでどうなったかって?

 やっぱり次の日もその次の日も、先輩に嫌味を言われて営業で苦情に追われる厳しい毎日に変わりはない。変わりはないけれど……時々アルバイトの女の子が僕にだけコーヒーを淹れてくれたり、すっかり忘れていた懸賞のテレフォンカードが当ったりするようになった―――気がする。



2000.1