「また、だわ」
姉さんが低い声で呟いた。
「また、アイツが見ている」
かすかに、震えてもいるようだった。顔色が、あまり良くない。
その横にいた父さんは、外をちらりと睨んで、小さく舌打ちした。
「ちっ。しつこい奴め。一体、どこまでつけ回せば気が済むんだ!」
部屋の隅っこにいた僕は、ただ、薄気味悪い恐怖に、体を縮める。
――――今日で、もう三日目。
姉さんが、アイツに狙われだして、すでに三日が過ぎようとしていた。
そう、いわゆる、ストーカーという奴だ。姉さんに目をつけたアイツが、昼も夜もなく姉さんの行動を逐一見張ってつきまとっているのだ。
アイツの暗い情念に燃えた目つき。
姉さんはすっかりノイローゼになっていた。
「………お前も悪いのよ」
母さんが、弟たちを回りに引き寄せて姉さんに言う。
「あんな奴の気を引くようなことをするから」
「だって………!」
責められて姉さんは涙ながらに叫んだ。
「だってあの時、彼ってば私には全然気がなさそうだったんだもの。それで………それでつい私、彼の前を気取って歩いてみたりしてしまったんだわ。ほんの、いたずら心だったのよ………!でもまさか、こんなにしつこい性格してるなんて思わなくて………」
わあぁぁぁぁぁ………!
姉さんは、泣き崩れた。
つられて、弟たちも愚図りだす。
慌ててあやしながら、母さんはため息をついた。
「とにかく………家からあまり出ないことだろうね。私たちの家までは、さすがに入れやしないだろうから」
季節は今、春から夏に向かおうとしていた。
目映いばかりの緑が、青春を謳歌している。
だが、ストーカーに悩まされている僕たちの一家は、残念ながらそれどころではなかった。
「駄目よ………。アイツに見つからないように、どこか新しい所へ行くなんて、絶対できっこないわ」
アイツが出没を始めて一週間。とうとう引っ越そうと言いだした父さんに、姉さんが絶望に染まった
声でそう反対を唱えた。
反論されて、父さんは難しい顔になって考え込む。
――――当然だろう。アイツのしつこさは、この一週間で充分身に染みているのだ。どれほど気をつけてそうっと家を出ても、アイツは必ず見逃さない。物陰から物陰へ、身をひそめて後をつけてくる。
気を抜くことは、一瞬たりともできなかった。
たぶん、人が寝静まった頃に目立たぬよう引越しをしたとしても、アイツは気付くに違いない。
だけど………。
だけど僕としては、引越しの案の方に賛成だった。
何故なら、アイツの行動が、段々これ見よがしになってきているからだ。
初めの頃は家のそばで静かに目を光らせているだけだったのに、この頃はわざとらしく家の目を行ったり来たりするのである。
精神的な揺さぶりで、姉さんは一睡もできない有り様だった。
僕だって、アイツの黒い影がゆらゆら近づくたび、気持ち悪くなる。だから、アイツから離れられるわずかな可能性があるというのならば、なんとしても賭けてみたかったのだ。
「………ああ、いや、やはり、引っ越そう」
ふいに、考え込んでいた父さんがきっぱりと言い切った。
「大体、チビたちが、外で遊びたくてうずうずしている。俺はなるべく安心できる環境を与えてやりたい。それに………お前もそろそろ、いい年頃だ。こんな所で隠れるように暮らして、結婚を諦めるか?」
姉さんはうつむいた。
じっと一点を見つめて、思い悩んでいる。
随分と時間がたって………ようやく、姉さんは顔を上げた。
「そうね。いつまでも、こんな怯えた生活なんて、していられないわね。引越し、しよう。父さん」
「よし!そうと決まれば、善は急げだ。奴が目を離した隙を狙ってここを出て行くぞ!」
………夜明け前。
街の一角が、突然騒がしくなった。
――――ニャーオ!
――――チュウ、チュウチュウ!
………そして静寂が訪れる………。
1998