「理由は言えないけど」
新しい生活の始まった第一日目。彼女は至極真面目な顔でそう切り出した。
「夜の9時から10時までは……絶対に私の部屋を覗かないで欲しいの」
駆け落ち同然で結婚に至ったボクたちだが、依然、ボクは彼女のことをわからなくなるときがある。
初めて出会ったのは、大学の古典の授業だった。偶然隣の席に座ったボクへ、彼女は唐突にこう尋ねたのである。
「ねえ。陸地と海の面積比が3:7だって知ってた?そして、もしも陸地をぜーんぶ平らにしちゃったら2700mの深さの海になってしまうんですって!」
「そ、そうなんだ」
「だとしたら、どうして人間って海から出てきたのか不思議じゃない?海の方が断然広いのに?」
……そんなこと、ボクに解るはずもない。むにゃむにゃとお茶を濁していたら、彼女はさっさと一人で結論を出していた。いわく、「そうよ、きっと昼と夜がなかったせいだわ。生活に張りをつけたかったのよ!」と。そして彼女は疑問解決のお祝いに、ボクを喫茶店へ誘ってくれたのだった。
つまり彼女にはそういった突飛なところが多々ある。ボクなんかがすべてを理解できるはずがない。また、それが彼女独特の魅力でもあるわけで。
だから、ボクは彼女の不思議な頼み事をさして疑問も挟まずに受け入れたのだった。
そして半年後のことである。
「おまえ、それ、絶対おかしいって」
友人の田中がジョッキ片手にボクへ力説をした。
「毎日決まった時間に部屋へこもるんだろ?昔のオトコかなんかに電話してるんじゃないのか?」
「……物音一つ、しないけどなあ」
「じゃ、部屋を抜け出してるんだ!」
「それはないよ。居間でテレビ見てるボクに気付かれず、玄関には行けないもの。それにうちはマンションの8階だしね」
「じゃあ……じゃあ……」
額に手をあてて真剣に考え始めた田中に、ボクは思わず吹き出した。ビールを差し出しつつ言う。
「ほら、もっと飲めよ。……別にいいじゃないか、そんなこと。彼女のことだし、きっと変わったポーズで瞑想でもしてるんだと思うよ」
「つくづく、のん気なヤツだなあ」
田中は呆れ顔で嘆息した。
「ほら、昔話でよくあるじゃないか。“決して覗かないでくれ”って言われたのを覗いたら、ばーさんが包丁を研いでいたってやつ。頭の後ろに大きな口が……っていうパターンもあっただろ」
「おいおいおい、気味の悪い例を出すなよ。それならせめて鶴が機を織っていたとか言って欲しいな」
ボクは顔をしかめて田中をたしなめた。田中は、ぺろっと舌を出した。
「ま、要するにだな。なんか変なことを隠しているわけだから、調べてみた方がいいんじゃないかってことだよ」
「うーん……」
ボクはつまみの枝豆を口に放り込みながら眉を寄せた。
田中は、友情から注進してくれているのだろうけれど。どうも……乗り気がしない。
「なんだかなー。……大体、そういう昔話は覗かないでくれっていうのに覗いたり話すなっていうのに話したりして夫婦が別れてしまうオチじゃないか。どんな人間にも秘密の一つや二つはあるわけで、あえてそれを突ついて離婚の危機を迎えるのは……遠慮したいなあー」
それに、ボクは彼女の部屋ごもりを気にしているわけじゃないし。
もごもごと呟くボクに、田中は軽く肩をすくめた。
「ある意味、似合いの夫婦だよ。おまえたちって」
田中と別れて家に帰ったのは、午後9時10分を過ぎた頃だった。
例によって例の如く、妻は自室にこもっている。
ボクは一応、「ただいま」と声を掛けてからシャワーを浴びる用意に取り掛かった。
下着とパジャマを風呂場の籠に放りこむ。シャツのボタンに手を掛け……ふと、ボクの脳裏に田中の言葉が甦った。
“ほら、昔話でよくあるじゃないか―――”
“ばーさんが包丁を研いで―――”
“頭の後ろに大きな口が……”
馬鹿馬鹿しい、と思う。それは、作り話だ。
“絶対、覗かないでね?”
“ちょっとでも開けたらダメなんだから。電話も取り次がないで欲しいの”
部屋へこもる前には必ずくどいほど、彼女は言う。
変……だろうか?確かに変かも知れない。付き合っていた当時、夜の9時には家に帰らなくちゃいけないなんて、言ったこともなかった。
物音一つしない部屋。
すでに半年。毎日毎日……。
(田中のせいだ)
ボクは心の内で密かに歯噛みした。そう、確かに気にしてなかったといえば、嘘になる。でも、こんなに不安を感じることはなかったのに。
―――翌日から地獄が始まった。
閉ざされた扉が、ボクに無言の圧力をかけてくるのだ。
彼女の屈託無い笑顔へ素直に笑い返せない自分がいたりして、どきっとする。
(ダメだ。このままじゃ……)
ボクは彼女を愛している。そして彼女がボクを愛しているということを信じている。
だからボクは絶対に扉を開けちゃいけないし、彼女を疑ってもいけないのだ。
そう、部屋の中を―――覗いちゃ、いけない……。
頭の何処かで警告音がする。
解ってる。解ってる!手を伸ばしちゃ、ダメだ、と。
ダメ……だ……と……!!
かちゃり。
「あーっ!」
扉をほんの僅かに開いた瞬間。世界中を震わす叫びが響いた。
「まー君、やっと扉開けてくれたっ!もう、一体いつになったら開けるのかと待ちくたびれたじゃない。もしかして私のこと、全っ然気にしてないんじゃないかって不安になってくるしぃ」
―――がっくり。
ボクは激しく脱力した。
―――愛って……愛って、難しい……。