土に還る

 ヤマモトさんは、結婚三十周年の記念に海外旅行をすることにしました。海辺の小さな町で夫婦二人の小さな小さな料理屋を営んでいるヤマモトさん。彼にとっては、これが初めての海外です。というよりも、新婚旅行でさえ自分達の住む海辺の町からほど近い温泉街にたった一泊しただけなのですから、初めての夫婦旅行と言っても過言ではないことでしょう。
 一人前に成長した息子や娘達が「せっかくなんだからゆっくり楽しんでおいでよ」と料理屋の留守を引きうけてくれ、二人はこれまた生まれて初めての飛行機に乗り込みました――。

 旅行は全部で二週間。

 ツアーに混じって二人はヨーロッパのあちこちを楽しみました。初めて見るものや口にするものばかりで毎日が驚きの連続です。だけども半分のたった一週間が過ぎた頃になると、ヤマモトさんはもう海辺の小さな町が恋しくて仕方がなくなりました。奥さんもやはり同じようです。
「やっぱりワシらはあの小さな町の方が合っているなあ」
「そうですねえ。昔は出窓のある白いお家に憧れたりもしましたけど。ベッドで寝る生活はどうも向いてませんねえ」
 一度そう思い始めると、それまでは夢のように見えた大きなお城もレンガ造りの古い町並みも色あせてゆくようです。
 ヤマモトさん夫婦が急に興味を失ってしまったように見えたからでしょうか。一人でツアーに参加していた初老の男性が二人に話し掛けてきました。
「結婚記念の旅行ですか」
「ええ、夫婦揃って生まれて初めての海外旅行です」
 タナカと名乗った男性に、ヤマモトさんは照れくさそうに答えました。タナカ氏は穏やかに微笑み、尋ねます。
「お見受けするところ、少し退屈なようですな。建物や絵画ばかりで飽きましたか」
「いえいえ、何もかもが新鮮で面白いですよ」
 聞かれたヤマモトさんはあわてて首を振りました。写真をたくさん撮るのは止めましたが、決してつまらないと思っているわけではないのです。
「なんというのか…」
 首をひねりながらヤマモトさんはもやもやとした気持ちを表す言葉を押し出しました。
「ずっと小さな海辺の町から出ることがなかったせいでしょうかねえ。何故だかどうにも落ち着かないのですよ」
 ヤマモトさんの説明を聞いて、タナカ氏は何故か羨ましそうに目を細めました。
「そうですか。それではきっとあなたは、あなたの生まれた土のそばにいるんですね」
「は?生まれた土…ですか?」
 ヤマモトさんはきょとんとしました。一体、どういう意味なのでしょう。
 タナカ氏は身をかがめて足元の土をすくいあげました。
「聖書によると、最初の人間・アダムは土から創られたそうですよ。中国の神話では女禍という女神が泥をこねて人間を創ったといいます。ペルシア神話のカヨーマルスも然り」
 突然語り始めたタナカ氏に、ヤマモトさん夫婦は顔を見合わせました。アダムと海外旅行との繋がりがさっぱり解かりません。
 タナカ氏はすくった土をぱらぱらと下へ落としながら更に話を続けました。
「つまり人はみな、土から創られたのです。そしていずれ土に還る。――そう、だから私はもうずっと、私の創られた土を探しているのですよ。そこが、私の本当に落ち着ける場所だと思うからです」
 タナカ氏は小さくため息をつきました。
「…ですから、私はあなた達夫婦が羨ましい。小さな海辺の町から出ることがないというのは、きっとあなた達の土がそこにあるからです。私にはまだ見つからない自分の土が……」

 二週間の旅が終わり、ヤマモトさん夫婦は元の生活に戻りました。すんなりと、まるで町に溶け込むかのように。

 あれから、タナカ氏と会うことももうありません。
 だけれど、きっと今もタナカ氏はどこかで土を探して旅をしているのだろうとヤマモトさんは考えるのです――。


03'3.28