野ウサギのソウタ(♂・4才)は、近頃ひどく塞ぎ込んでいます。原因は、つい先日行われたとある競走のためでした。かなり話題になったので、もしかすると知っている人もいるのではないでしょうか。
そう、カメのテッタ(♂・12才)との駆けっこ競走のことです。
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ソウタは、ウサギ仲間の内でも足が速いので有名でした。それはソウタ自身にとってもとても誇らしく、よく森中で自慢したものでした。
そんなある日のことです。何の集まりの時だったか、ふとした拍子にテッタが一つの提案をしてきたのでした。
“じゃあソウタ君。一度僕と競走してみないか”
ソウタは以前より、カメの足の遅さを聞き知っていました。ですから、内心吹き出してしまったのですが、すぐにその挑戦を受けました。何故ならテッタ如き恐れる必要もなく、又、みんなに得意の俊足を披露できることが嬉しくて仕方なかったのです。
次の日、真っ青な空の下、早速駆けっこが始まりました。
予想通りと言うべきか、ソウタはあっという間にゴール直前。余裕綽々で後ろを振り返ると、テッタはまるで動いていないかのように遠くに小さく見えます。ソウタは、思いました。
(さっさとゴールしては可哀相かも知れない)
そこで、ちょっと一服することにしました。
しかし。
油断大敵。上手の手からも水は漏る。
それがいけなかったのです。
だってソウタは、ちょっと一服のつもりだったのに、すっかり眠りこけてしまったのですから。
───―起きた時には後の祭りでした。
休むことなくマメに歩き続けたテッタが、ソウタより先にゴールしていたのです………。
***
「お前のせいだ」
「ソウタのせいで、我々ウサギ族の権威が地に落ちてしまった」
「どうしてくれる」
次の日から、ソウタは仲間たちから次々と非難を浴びせられるようになりました。その上、森の住民たちも冷やかしの眼差しを向けてきます。
(嗚呼、ボクはどうして居眠りなんてしてしまったんだ………!)
後悔先に立たずとは、まさしくその通りです。ソウタは、昼に夜にあの悪夢の駆けっこを思い出さずにはいられません。
悩みに悩み、深く苦しんで、ソウタはついに一つの結論を出しました。
そう、リベンジです。もう一度、テッタに駆けっこを挑むのです。
そして、ソウタがテッタに負けるはずがないことを、みんなに知らしめてやろうじゃありませんか。
***
テッタに再度の勝負を申し込むのは、とても緊張しました。
が、案に相違して、テッタはあっさりと二度目の勝負を受けます。
(ちぇっ、勝ったからっていい気になってやがる)
ソウタは苦々しく呟きました。
だけど、今度はそうは問屋が卸さない。ソウタは、にやりとほくそ笑みました。
―――――さあ、勝負開始です。
今回は、波瀾を予想させるような今にも振り出しそうな空模様です。
「よーい、スタート!」
クマのダイジが、響き渡る大声で合図を出しました。
―――――タタッ!
おお、ソウタ、素晴らしいスタートです。
しかも前回と比べ物にならないくらい、真剣な顔です。名誉を挽回するために、ソウタは今までで一番の走りを見せようと考えていたのでした。
がしかし。
(足が痛い………)
走り出した途端、ソウタは異常な痛みに気付きました。後ろの左足が、ぐいぐい引っ張られるような、押さえつけられるような、そんな痛みを発しているのです。
(どうしてこんな日に………!)
思わずソウタは呻きました。しかし走るのは止めません。視線だけをちらりと自分の後ろ足に送りました。少しくらいの怪我ならば、今日は無理をしてでも走らなければならないのです。
と?
「テッタ!?」
己の後ろ足を見たソウタは愕然としました。
何故なら、自分の足に紐が結わえてあり、その先には………なんとテッタがつながっているではありませんか!一体、いつの間に結びつけていたというのでしょう。
ゴン、ゴン、ゴン!
ソウタの走りに合わせて、テッタが地面と激突しながら跳ねています。首も手足も甲羅の内に引っ込んで、紐の結ばれた尻尾だけがひょろりと出ています。
(何を考えているんだっ)
ソウタは思わず呆然としました。
そして次に、無性に腹が立ってきました。
恐らくテッタは、こう考えたに違いないのです。………前回と違い今回は到底勝てぬ、ならば小狡い手段を使い、せめてほぼ同着くらいにはしてやろうじゃないか。これで、まさか皆に森一番の足の持ち主なんて自慢もできやしないだろう、と。
なんてせこい奴なんでしょう。
でも思い起こしてみると、初めにきちんとした勝負方法を明確にした訳ではないのです。
“己自身の足で走る”
そう規定していない以上、ソウタがこの勝負に無効を唱えたところで森の仲間たちは認めてくれない可能性があります。テッタは、きっとそれも計算に入れているのに違いないのです。
(冗談じゃない)
ソウタは唇を噛み締めました。
二度も恥をかく気など、毛頭ありません。しかも、このような姦計に。
ソウタは走るのを止めずに、必死で頭を巡らしました。そして、良いことを考えつきました。
(そうだ、ゴール直前で紐を外し、遠くへ放り投げてやる)
にやり。
ソウタは素晴らしい思いつきに心が踊りました。これでこそ、気持ちが晴れるというものです。
もはや足の痛みなど感じなくなりました。
ただひたすら、ゴールを目指すだけです―――――。
***
丘の上の一本杉。
あれが、ゴールです。
さすがに後ろ足の痛みがひどくなってきましたが、ソウタは渾身の力を振り絞ってラストスパートをかけました。それに合わせるかのように、テッタの跳ねる音の間隔も短くなります。
ゴンゴンゴン、ゴンゴン!
―――――残り、とうとう十メートル。
九メートル。
八メートル。
(そろそろ紐を―――――)
ソウタは、一本杉との距離を目測しながらこっそり後ろ足に視線を送りました。復讐の時は、もう目前です。そしてこれでようやく、悪夢から解放されるのです。
が。
その瞬間。
「危ない、ソウタッ!!」
甲高い悲鳴。いや、誰かの切羽詰った叫び。
「えっ、何!?」
ソウタはびくっとして、咄嗟に急ブレーキをかけました。
キキキッ!
紐に手を伸ばしかけた不自然な姿勢は、予想以上に激しいGをソウタにもたらします。もんどりうつように勢いよく、ソウタは前方へ転がりました。
「い、いたたたた………」
顔面を思いっきりぶつけて、ソウタは顔をしかめました。しかしながら、ゆっくりと起き上がります。痛みを堪えつつ、一体誰が叫んだのかと不審げにきょろきょろと周囲を見渡してみて………そこで初めて呆然としました。
何故なら。
ソウタの僅か五、六歩ほど前。大きな木の下に。
一匹のカメが。
にっこりと微笑んだテッタが。
―――――いた、のです。
「やあ、ソウタ君。また僕の勝ちだね。柔よく剛を制す、というものかな。これは」
1999.12
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