忘れ物

 なんだかこの頃、物忘れがひどい気がする。
 僕は満員電車に揺られながら、雨に濡れる街並みを見てぼんやり思った。
 そう、例えば傘なんて……一体何本なくしたことだろう?まったく情けないったら。
 だけどまあ、僕には心強ーい味方があるからいいんだけどね。通称リストフォン―――今、巷でも大流行りの腕(というより手の甲)につける携帯電話パソコンが。
 これって、本当に便利なんだ。電話にメールはもちろん、デジカメや七ヶ国語同時通訳機能・ナビゲーションシステム、電子手帳とスケジュールお知らせ機能なんかが完備しいて、更には最新の音楽やニュースまで聞けるのだから。もはやこれなしでは現代の情報社会を生きられないって感じ。
 ピルルルル。
 リストが小さく振動した。僕は慌てて電車から降りる。文字盤へ目を走らせると“T総合病院へ”というメッセージ。そうだ、今日は会社じゃなくて先にT病院の方へ行って新しいカタログを届ける予定だったんだっけ。うーん、さすがリストフォン。スケジュールとナビゲーションシステムが連動して、降りる駅まで教えてくれるんだから!忘れっぽい僕にはぴったりだね。

 物品関係を担当しているサカイさんという人にカタログを渡し、ついでに前回納入した製品の感想な
どを聞く。

 僕は医療器具を販売しているとあるメーカーの営業社員なのだ。
 ちなみにこういうアンケートをとる時、リストフォンのメモ機能をONにしておくといちいち僕が入力をしなくても勝手に話を要約して自動記録するのでかなり楽である。
 さて、しばらく色々な話をした後、ふと僕はサカイさんに尋ねた。
「そういえば、最近、よく頭痛がするんですよね。これいう時って何科で診てもらえばいいんですか?」
 サカイさんは、少し考えてこう答えた。
「ちょうどこのカタログ、内科のヒシダ先生に持っていくつもりなのよ。一緒に行ってついでにちょっと先生に聞いてみる?」
「え、そんなこと、いいんですか?」
「ちょっと聞くくらいならいいわよ!」
 サカイさんはどんと太鼓判を押した。そこで僕は好意に甘えてみることにし、彼女の後ろからちょこちょこと外来へと向かったのだった。
 ―――ヒシダ先生は、半白の髪のとぼけた顔をした先生だ。ちょうど予約の患者がまだ来ていないということだったので、僕は手短に頭痛のことを話した。いつも痛いというわけではないのだけど、考え事ができないほどずくずくする時がある。もし何か大病の可能性があるのなら、早めにちゃんとした診療を受けたいのだが、と。
 ヒシダ先生は僕の顔を見、そして僕の腕を見た。軽く脈拍と瞳孔を調べて、ため息を漏らした。なんとなく嫌なため息だ。僕は恐る恐る声を出した。
「せ、先生?」
「WP病じゃな」
「だぶるぴー?」
 聞いたことのない病名に、首を傾げる。何の略だろう?思わずリストフォンの辞書機能に手を伸ばす。
 先生はそれを止めて静かに言葉を続けた。
「WPはリストフォンの略じゃ。正式には電子機能依存性健忘症と言う。ようするに何でもかんでも機械に頼って自分の頭で記憶をしないから、たまに使えば痛くなるという病気じゃよ。進行性の著しい、治りにくい厄介なヤツで、最近の若者には非常に多くてなあ……」
 僕はぽかんと口を開けた。そりゃ確かに、リストフォンに頼ってはいるけど、記憶力を全然使っていないわけじゃない。第一、そんなことが病気になるものなんだろうか。
 そんな僕の心中を見透かしたのか、先生は難しい顔で僕のリストフォンをこんこんと叩いた。
「治すには、まずこれを取って生活をせんといかん。それが一番難しいんじゃ。そしてとにかく初めは紙にペンでメモを取るようにする。手を使って文字を書くという行為が記憶を助けるでな。―――手遅れにならんうちに、やった方がいいぞ。どんどん悪くなっていくでの」
「はあ……」
 半信半疑の気持ちで、僕は先生の言葉に頷いた。

 ピルルルル。

 病院を出たところでリストフォンが振動する。
“十一時、会議”。今から急いで四十分発の電車に乗れば、間に合うらしい。
 僕は慌てて駆け出す。
 ……あれ?そういえばなんだか重要なことを聞いたはずなんだけど―――うーん、何だったっけ?


2001.2.9